「ひーエッセイ」 バックナンバー

 

 

   

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目からうろこがぼとりと落ちる
     ★★ひーエッセイ★★     2003/05/07 発行
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第86巻 「かけてみよう」
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 第71巻「優先順位」でふれていた父の新たな入所施設が、無事決まった。

 この4月から介護保険の見直しが行われ、父のように要介護度も入所の緊急性も低い人は、特別養護老人ホームには事実上入所が困難になった。
 老健施設も同様で、あちこちの施設を回っている人にとってはますます敷居が高くなってしまった。

 いろいろ悩んだ末、介護保険を利用する「老人マンション」タイプの施設に父を入所させることにした。

 老人マンションタイプの施設は、基本的に個室が与えられるけれど、本人が使用する物全てを家族が用意しなければならない。それに月々支払う額も、今までよりも増える。
 だけど、よほどのことがなければ終身利用が可能である。つまり、次の落ち着き先を考える必要がなくなるのである。

 私が選択した「優先順位」は、次の3つだった。
1.保証金が安価であること。
2.家から1時間以内の距離で、バイクでも電車でも通えること。
3.施設の周りの環境が穏やかなこと。

 これにある程度あてはまったのが、今回お世話になることにした施設なのである。
 オープンは今年3月。まだ建物もぴかぴかである。

 これまで何度も病院や施設を転々としてきたけれど、父は移動が決まると必ず軽い興奮状態に陥る。

 単なる物忘れなのか痴呆状態なのか区別がつかないほど、同じことを何度も何度も聞いてくる。私は同じことを何度も何度も伝える。だけど父は、聞いたことをすぐ忘れてしまう。
 そしてまた同じことを私に聞いて、私が同じ答えを繰り返すと、父はこう言う。

「わし、それは初めて聞いたわ」

 こんな時私は、思わず父の頭をひっぱたきたくなる。

 このような「何度も同じことを聞く」攻撃の対象者は、私だけにとどまらない。
 フロアの職員さんをはじめとして、リハビリの先生、看護婦さん、相談員さん、果ては食堂のおばちゃんにまで話し続けるのだ。

 こんな攻撃を何日も続けられたら、たまったものではない。だから父には、移動日の直前にしか日程を伝えない。
 今回も、担当の相談員さんを通じて父に移動日を伝えてもらったのは、先週の金曜日のことである。

 その翌日、移動日前日に当たる先週の土曜日。
 私は簡単な荷物の整理を兼ねて、父の所に行った。

 やはり父は、すでに少しハイテンション気味であった。先週まで風邪気味でしんどそうだったけれどすでに完治し、機関銃のようにしゃべりまくる。
 麻痺の影響もあって、父の発する言葉は聞き取りにくい。初めての人には、まず聞き取れない。それが興奮して早口になると、私にも聞き取れなくなる。

 これが移動日当日になると、頭の血管が切れるんじゃないかと思うくらい、興奮度が上昇する。
 もともと早起きだけれど、いつもよりもっと早く起き出し、私が到着するのをひたすら待っている。

 今回の移動には、「福祉タクシー」を利用することにしていて、予約もすでに済ませてあった。
 ちなみにこの「福祉タクシー」とは、車いすに乗ったまま乗車できるワゴン車タイプのタクシーである。

 実は以前、普通車に乗せてもらって転院したことがあるのだが、その日はあいにく雨だった。車いすから車への乗り換えに手間取り、父をびしょぬれにさせたことがあったのだ。

 普通のタクシーよりかなり割高で、しかも台数は少ない。でも、背に腹は代えられない。

「タクシーは10時半に来るからな」
「タクシーで行くんか。ここの車は使えへんのか」
「今までが特別やったんやで。普通は送り迎えなんかしてくれへん」
「向こうから迎えは来よらへんのか」
「来るわけないやん」
「なんや、ずぼらな所やな」
「…とにかく、タクシーは10時半やで。私は9時頃来るわ」
「そうか、わかった」

 この会話を数回繰り返して、私は施設を後にした。

 明けて日曜日、移動日当日である。私が施設に到着したのは、予定通り午前9時だった。
 とにかく少しでも早く行かないと、「遅いやんけ!」と怒鳴られるのである。早く行っても怒鳴られるのだが。

「着替えはどうするんや」
「着替えはここのやから、全部脱いで着替えてや…もう、口ばっかり動かして
んと、ちゃっちゃと着替えてや!」

「紙パンツは、向こう(の施設)にもあるんか」
「ある、って、昨日から何べん言うたらわかんねんな!」

「テレビはどうやって持っていくんや」
「タクシーに積めるから、心配せんでもええ。それに小型やから軽いって」

「尿瓶は持っていかんでもええんか」
「この尿瓶は、ここのやんか! 向こうにちゃんと用意してあるから。それよ
り、ちゃんとおしっこしときや。タクシーの中でしたくなっても知らんで」

「もう下(1階ロビー)に降りなあかんな」
「まだタクシー来るまで、1時間以上あるがな。そんなに早う行って、どないすんねんな!」

 こんな会話を何度も繰り返し、出発までに私はへとへとになってしまう。

 第74巻「ごんたなおっさんたち」に登場した、父と同室のおっちゃんの娘さんは、この老健施設で働いている。父とも仲良しで、父が出発する時には見送りに来るとおっしゃってくださっていた。

 前日にしつこいほど出発時間を確認していたくせに、父はタクシーが9時に来るとか、出発は昼頃だとか、しっちゃかめっちゃかなことを彼女に伝えていたらしい。

 正確な出発時間を私の口から確認したおっちゃんは、お休みで家におられた娘さんに連絡をとってくれた。
 施設から近い場所にお住まいの彼女は、すっとんで来て下さった。それを見た父は、こうぬかした。

「こいつ(私のこと)が、タクシーが9時に来るって言いよったんや。ほんまにええ加減なやつや」

 後ろから首を絞めようかと思いましたで。

 そして出発の時間。
 父は、泣き虫である。年齢が上がるにつれて涙もろくなり、移動の時には必ず泣いている。

「ティッシュ、箱ごと持っとくか?」
「あほ、わしは、泣かへんわい」

 その会話の1分後には、大粒の涙をこぼしている。

 その日出勤していたフロアの職員さんや相談員さん、同室のおっちゃんたち、そして施設で飼っている犬に見送られ、1年間お世話になった老健施設を後にした。

 新しくお世話になる施設まで、約30分のドライブである。
 変貌した景色や道のことと施設のことを交互にしゃべり続け、新しい施設に到着した。

 自分の目でこれから生活するところを確認できた父は、少し興奮が収まってきた。でも、自分の言いたいことだけしゃべって、人の話を聞こうとしないのは相変わらずである。
 私は興奮状態の父としゃべり続けて、すでにくたくた。のどはからからである。荷物の整理だけ済ませ、ふらふらの状態で帰途についた。

 翌日、再度父の様子を確認に行き、父の移動大作戦は無事終了を迎えた。

 父がこの施設での生活に慣れてくれるかどうか、まだわからない。気に入らないことが起こると、瞬間湯沸器のように怒りの炎を燃やす人である。
 正直、とてつもなく不安である。一種の賭けと言っても過言ではない。

 でも、父が新しい環境になじめる順応性をまだ持っている今だから、この「移動大作戦」が敢行できたのではないかとも思う。

 施設を選択した時も、保証金を支払った時も、準備に追われていた時も、移動の時も、そして今も、2つの思いの中で私は揺れ動いている。

 だけど、父と私は、新たな道を歩き始めたのだ。
 父の順応力と生命力に、かけてみよう。生きるのは、父自身なのだから。