「ひーエッセイ」 バックナンバー

 

 

   

----------------------------------------------------------------
★★ひーエッセイ★★ '03/01/28(Tue)発行
----------------------------------------------------------------
第78巻 「喫煙者と酔っぱらい」
----------------------------------------------------------------


 先日「通販生活」という雑誌を読んでいて、「喫煙者を悪とキメつける風潮に異議あり」とタイトルがついた記事が目にとまった。

 煙草は吸わないにこしたことはないし、世界的に広がりを見せる禁煙運動には双手を上げて賛成したい。
 が、どうしてもやめられないと言う喫煙者に禁煙を強制する雰囲気はどんなものだろう。「喫煙の権利」は、個人の自由として尊重すべきものなのではないか。

 記事の要旨はこのようなもので、喫煙習慣のある4人の有名人や知識人の「言い分」が掲載されているのだ。
 この言い分、結構おもしろく読めた。

 説得力のない「喫煙者=悪」はやめてほしいとか、煙草は自分の「聖域」だから誰にも侵されたくないとか、4人それぞれ多種多様な意見を述べておられる。
 その中で私の心に一番とまったのは、女優の奈良岡朋子さんの意見だった。

 彼女が喫煙を始めたもともとのきっかけは、劇団に入って初めてもらったのが、煙草を吸う芸者さんの役だったからだ。
 彼女はそれまで煙草を吸ったことがなかったけれど、さりげなく自然に吸っているという雰囲気作りのために、一生懸命たくさん吸ったそうである。

 やめようと思えばやめられたけれど、役者をやっていると煙草が小道具として使われることが多いから、禁煙どころではないと笑いながら語っておられる。
 そして彼女はこう続けるのだ。

「煙草は、酔っぱらいよりも迷惑なのかしら」

 このエッセイでもう何度も書いたけれど、私の父は大酒飲みだった。加えて、かなりのヘビースモーカーでもあった。
 父の「自己申告」によると、中学時代から既に煙草を吸っていたそうだから、筋金入りである。

 だから私にとっては、父が煙草を吸うのも、酒をかっくらうのも、生まれた頃から目にしていたごく自然な家庭の一風景だった。
 煙草とアルコール類は、父が倒れるまで我が家から消えることはなかった。

 煙草とライターは、ごく自然に私の手の届く場所に置かれていた。でも不思議なもので、あまりにも身近だと積極的に吸いたいという気持ちが起こらないものなのかもしれない。
 だから私は、今まで煙草を吸ったことはない。

 父はよく煙草を吸いながらトイレにこもっていた。
 今とは違って水洗トイレではなかったので、父が入った後のトイレの中はいろいろなニオイが入り交じって、結構臭かったのだ。

 生まれた時からこの臭いに免疫ができている私はまだよかったのだが、臭いに敏感な母はそうもいかなかった。
 何しろ母は、私が着ていた学校の制服の臭いまでも犬のようにくんくんかぎ、「『学校くさい(母特有の言語で、ほこりくさいという意味)』から、早ようクリーニングに出し!」と、よく叱られたのだから。

 ほこりくさくなるのは、決して私のせいではないのに。

 それはともかく、父のトイレの後の臭いを消すために、母はいろいろなものを撒いていた。
 私などは、その消臭剤やら消毒剤の臭いの方が、鼻につんときて臭いと思ったのだけれど。

 社会人になって初めて勤めた会社の部長さんもヘビースモーカーで、来客用の大きな灰皿が1時間もしないうちに吸い殻で一杯になるくらいの煙草を吸っていた。歯も手もヤニだらけだった。
 銘柄はハイライト。匂いも結構きつかった。

 出来の悪かった私は、その部長さんから直々に仕事を教わっていた。私を指導しながらすぐ横で煙草を吸われるので、私の全身にはハイライトの臭いがしみついてしまった。
 それにその部長だけではなく、車内にいるほとんどの男性が喫煙者だった。

 その後何度か転職したけれど、短時間で灰皿を一杯にするようなヘビースモーカーは、どこの会社にも最低1人は必ずいた。
 換気や禁煙に気を遣うような会社に在籍したことがなかったので、その環境に慣れなければ仕方がなかった。

 煙草を吸うことが「生活の一部」になってしまっている人達が、確かに存在するのである。

 確かに煙草は、吸っている人だけでなく、煙草を吸っている人の回りにいる人にまで害が及ぶと言われている。
 ヘビースモーカーのそばにいると煙たいし、場所柄をわきまえずに喫煙するマナー違反の人も確かにおられる。

 でも最近、喫煙者を疎外する雰囲気、ひいては煙草の存在自体を抹殺しようとする動きが、ちょっと極端すぎるのではないかと感じていた。
 この記事を読んで、私はその思いを一層強く持った。

 奈良岡朋子さんは「迷惑をかけるという点では、酔っぱらいの方がひどいと思いますよ」と述べておられる。
 喫煙者をここまで疎外しながら、泥酔した酔っぱらいの存在が大目に見られているという風潮を、私はいつも「何だかなあ」と思ってしまっていたので、すごくこの意見に共感できた。

 私は、アルコール類が一滴も飲めない。今時珍しい「下戸」である。

 父の行状を生まれたときから見ているせいもあるだろうけど、どうも私にはアルコールを分解する力があまり備わっていないようだ。
 以前、本みりんを入れすぎてしまった料理を食べた後、目が回ってしまい、そのままベッドに直行したという経験があるくらいである。

 そんな私は、会社の宴会が何よりも苦手だった。

 宴会の始まりには必ず「乾杯」がある。当然、私のコップにもビールがつがれる。コップに口だけはつけるけど、飲めない。
 これって、結構気を遣うんですよ。

 それに、お茶やジュースでハイテンションを保つのは、なかなか大変なことなのである。
 ずーっと素面だから、人の変化ももろに見えてしまう。おもしろい時もあるけど、絶望的になる時もあったりして。

 そうこうしているうちに、ちょっといい気分になった人達が、お酌をしにやってきたりする。
「飲めないんです〜」と言っても、「俺の酒を飲んでくれへんの〜」と言われたりする。
 それが直属の上司だったりすると、かなりつらい。

 宴もたけなわになり、酔っぱらいが増えてくると、からまれたり抱きつかれたりと、もうほとんどセクハラ状態のような光景が展開される。
 そんな酔っぱらい達は次の日、自分のしたことやしゃべったことをきれいさっぱり忘れている。

 された私、聞かされた私は、しっかり覚えているのにである。

 宴会シーズンに電車に乗ると、飲まされたのか勝手に飲んだのかはわからないけれど、真っ青な顔をした人が、ごく自然に車内で嘔吐してたりする。

 でも酒がからんだ行状は、どんなことでもほとんどが許されてしまうのが実情だ。
 喫煙者は目の敵にするけれど、酔っぱらいには妙に寛大なニッポン。

 この差は、いったい何なのだろうか。
 マナーを守って楽しむという点では、同じ物なのに。

 道の真ん中に吸い殻を落としたり、公共の場で煙草をふかす人と、道の真ん中で嘔吐したり、公共の場で酔っぱらって暴れたりする人と、どんな違いがあるというのだろうか。

 煙草も酒も全くやらない私の目からみれば、どちらも「同じ穴の狢(むじな)」に見える。

 煙草も酒も、本来「大人」がたしなむ嗜好品だ。
 大人になったという「ステータス」として与えられる権利のひとつが飲酒と喫煙だと、私は思う。

 その権利を、条例や法律で縛らざるを得ないという不思議な状況が起こるということは、大人のなりはしているけれど、本当の大人ではないという人が蔓延しているからなんだろうなあ。

 東京都千代田区で施行された「歩きたばこ禁止条例」、こんな条例や法律が作ってしまえるのなら、「泥酔しての嘔吐禁止条例」とか、「酒宴でのからみ禁止条例」とかを作らなければ理にはかなっていない。
 それに、たとえ千代田区で吸い殻が減っても、その周辺地域では激増しているのかもしれない。

 だけど、法律や条令だけを作ったところで、根本的な解決にはならない。

 今までどんなに世の中が混乱しても、酒と煙草はなくならかった。店で手に入らなければ、人は自分で作っていた。
 酒と煙草は、物は違うけれど存在する理由の根っこは同じ。なくなることはないだろう。

 何しろ、生活必需品となっている多くの人達がいるし、飲酒・喫煙は権利でもあるのだから。

 この記事に登場する喫煙者たちは、「大人よ、大人になれ」と言っているように思えてならない。



*本エッセイに引用した記事は、現在書店で発売中の「通販生活(2003年春号)」に掲載されています。発行社であるカタログハウスのHPは、http://www.cataloghouse.co.jp/ です。