「ひーエッセイ」 バックナンバー

 

 

   

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★★ひーエッセイ★★ '02/11/04(Mon)発行
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第68巻 「ただいま工事中」
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 今私は、仕事用HPの全面リニューアル作業を行っている。
 昨年の秋に仕事用HPを開設以来、何度か小改造は重ねているけれど、今回のような大改造に取り組むのは初めてである。

 現在展開中の仕事用HPは、比較的堅めである。それに、知人から「『私』という人間が見えてこない。HPとしての魅力もない」という指摘を受けていたのだ。
 だから、今回は思い切って私らしさを前面に出すようにし、ついでにHPの雰囲気も柔らかめにしようと、日々アイデアを練っている。

 HPの雰囲気を変えるには、背景やアイコン、イラストも含めた素材選びが重要である。
 実は、私のHPに使用している素材は全て「もらいもの」である。

 私の琴線に引っかかるような素材を探して、サイトをあちこち回っているのだが、時々私はふと思うのだ。

「あー、絵を描く才能があったらなあ」と。

 もしも絵が描けたなら、背景もアイコンも全部自分で描いて、それをHPに掲載したい。そうしたら、もっと私ワールドが広がるし、仕事にもつながるんじゃないかと思えるのだ。
 夢がどんどん広がるきっかけにもなる。

 だけど私は、想像しているものや目の前にあるものを、目に見える形として、視覚的に表現することができないのだ。絵を描くことなどは、絶望的なほど苦手である。
 とどのつまりは、「不器用」ということなのだが。

 私は小学校の時から、図工とか家庭科という時間が大嫌いだった。通知票の成績も、「もっとがんばりましょう」以外、もらったことがない。

 以前にも少し書いたことがあるが、私は超スーパーミラクル運動音痴でもある。
 跳び箱につまづいてこけるし、鉄棒からは落ちるし、ボールを投げても前には飛ばないし、走り高跳びでは足とおしりが上がらないし、ソフトボールではバットにボールが当たらないし、とにかく何をやっても満足に出来なかった。
 当然、体育の授業など大嫌いだった。

 その惨状を見るに見かねた母親が、夏休みや冬休みを利用したスイミングスクールの短期水泳教室に、半ば強引に私を通わせた。
 それまでは、水泳もできなかったのだ。

 休みのたびに通うようになってから、私は少しずつ泳げるようになった。
 泳げるようになると、学校でもほめられる。ほめられるとうれしいので、また練習する。それの繰り返しで、泳げる距離はどんどん伸びていった。
 体育嫌いな私に、夏だけだが「逃げ場」が出来たのだ。

 だけど図工や家庭科に関しては、そういう逃げ場さえ存在しなかった。母に命令されて、小学校の必修クラブで図工クラブに入ったが、やっぱり好きにはなれなかった。

 図工の時間、紙粘土を使い針金を芯にして、人が走ったり運動したりしている像を作るという授業があった。
 他の人の作品は、きちんとふくらみがあり、横や後ろから見た人の様子が上手下手は別にしてきちんと表現されていた。

 だけど私はどう作っても、頭が丸くて体がぺったんこの人間像しか作れなかったのだ。

 家庭科の授業、特に裁縫もそうで、スカートや鞄がどうやってもうまくできない。
 とにかくまず、型紙作成からつまづいてしまう。スカートなどはいくつかのパーツに分かれているのだが、それらを型紙におこすという作業ができない。

 自分の頭の中では、完成図は出来ている。完成した後の使い道まで想像ができている。なのに、作り始めると形にならない。
 一事が万事そんな風だったので、全て母や祖母の力を借りていた。

 30代も後半を過ぎた私は、未だに物を立体的に見ることができない。
 家の間取り図などから、実際の家の造りを想像することもできない。当然、実物を見ながらでも立体図を描くことなどはできない。

 私の描く絵は、今も変わらず「ぺったんこ」である。

 想像しているものや目の前にあるものを、目に見える形として、視覚的に表現することができないということは、いつしか私のコンプレックスになってしまった。
 そのせいか、私は物ができあがっていく工程を目にすることに、異常なほど興味がある。

 大阪・梅田の阪神百貨店の地下食料品売場の一角に、「玉子丸」という機械がある。卵焼きを自動で焼く機械なのだが、それが実に器用に動くのである。
 私はその「玉子丸」前を通るたびに足を止めて、その動きを凝視してしまう。ひどい時は5分くらい微動だにしない。

 以前テレビで「ザ・メイキング」という番組をやっていた。
 身の回りのいろいろな製品ができあがるまでの工程を見せてくれる15分番組だったのだが、放送中の私はやはり微動だにしない。

 誰がこういう機械を想像し、考え、形にしていったのだろう。

 美容院に行くと、担当のおねえさんの手先をじっと見ている。
 はさみを器用に操ったり、ロットを器用に巻く彼女は、私にとってはあこがれ以外の何者でもない。

 彼女たち美容師は、お客さんの希望通りのヘアスタイルになるように想像しながら作業しなければならないのだ。下書きがあったり、頭に線を引いたりできるというわけではない。
 失敗が許されない、一発勝負である。

 仕事とはいえ、なぜ瞬時にできあがりを想像し、結果が出せるのだろう。

 電話でお客さんの話を聞きながら簡単な図をささっと書ける人や、似顔絵を描ける人などは、私にとっては神様みたいな人だ。

 機械だって何だって、「創る」ことは想像力から始まる。想像力を現実にするというのは、人間のパワーだ。
 だけど私などは、想像力だけで止まってしまう。想像力から形として残る物を自力で作ったことなどないし、できない。

 私には人間としてのパワーがないのかなあと、HPを作成しながらへこんだりする。
 単に努力が足りないだけなのだとも思うけれど。

 いつもこのエッセイで、えらそうなことを書いてはいるけれど、イメージを絵に描いたり、立体的に表現したりできないということは、物事を大きく見ることが、私の能力から欠落しているんじゃないかなと思えたりする。

 私は、物事を「点」でしか見られない人間なんじゃないのだろうか。
「点」と「点」とを結んで「線」にすることが、私にはできないんじゃないだろうか。
 学生時代、図工や裁縫が不得手だったのは、突き詰めればそういうことだったんじゃないかと思ったりする。

 素材サイトで見つけて私が気に入って採用した絵やイラストは、確かに私の思いを代弁してくれてはいる。でも、私をまるのまま表現しているわけではない。
 つたない文章でしか私を表現できないのは、何だかとてももどかしい。

 ああ、もっと才能あふれる人間だったらよかったのになあ。
 でも実際の私は、あっちこっちほころびだらけの、欠落人間。

 そんな私が、せっせとHPを作っている。
 絵が描けないというコンプレックスを、抱きながら。

 でもこれも、私なのだ。

 どの点をどこから切っても私が出てくるなら、それはそれでいいんじゃないかな。点は確かに私なのに、私が見えないという状態よりは、ずっとまし。
 それに一つ一つの点を確固とした物にしておかなければ、いくら線を引いても意味がない。

 無理矢理線を引くことを考えるよりも、自分の中の点をしっかり持っておけば、きっかけやチャンスもきっとつかめる。
 いつか線としてつなげることができる。

 自分なりに表現できる方法さえ持っていれば、いろいろな助けを借りれば、きっと「私」が一本の線でつながり、今よりもっと「私」をうまく表現できると信じたい。

 そんなことを考えながらHP改造を続ける私は、「絵が描けたらなあ」と、まだしつこくつぶやいている。
 HPも「私」も、ただいま工事中。「私」はたぶん、一生工事中。