「ひーエッセイ」 バックナンバー

 

 

   

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★★ひーエッセイ★★ '02/10/22(Tue) 発行
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第66巻 「不器用な親子」
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 私の母は、ある総合病院の脳外科病棟で看護助手をしていた。
 ずいぶん前から体調不良を訴えていたのだが、どんなに勧められても母は病院で検査を受けることはしなかった。
 だけどとうとう動けなくなり、子供のように嫌がる母を、半ば強引に勤務先の病院に連れて行ったのが、平成5年1月のことだった。

 体調不良の原因が不明だったので、その日はとりあえず内科病棟に入院したのだが、翌日病院から私の勤務先に、脳外科病棟に移ったという連絡が入った。
 母の体調不良は、小脳に出来た腫瘍が原因だった。

 その夜私は医師から、その腫瘍が悪性(ガン)にほぼ間違いないと宣告された。数日後に摘出手術を受けたのだが、この腫瘍は乳ガンの転移でできたものだった。
 脳に転移しているということは、もう既にガンは全身を回っているということになる。次にどこが悪くなってもおかしくないという状態であることは、変わりはなかった。

 数ヶ月後に乳ガンの手術も行われ、母は近くの大学病院に一時転院して放射線治療も受けた。
 だけど、その治療が終わって元の病院に戻る日、母は突然自力で立つことが困難になってしまった。たぶん、腰の骨あたりにガンが転移したのだろう。

 その日を境にして、母の容態は少しずつ悪くなっていった。
 トイレまで自力で行けなくなり、ベッドの横にポータブルトイレを置いたが、そこへの移動も1人では困難になった。

 母が入院してからというもの、私は毎日仕事帰りに病院へ通っていた。1日でも行かなければ、泣き声で電話をかけてくるからだ。
 ポータブルトイレでの用足しも、私の介助でなければ嫌がった。

 だけど食事の量もどんどん減り、母はどんどん小さくなっていった。12月に入る頃には、薬の影響もあってぼんやりしていたり、眠っていたりする日が多くなった。

 12月後半に入り、母の体の機能が極度に衰え始め、担当の医師からも、もう施す治療はないという最終宣告をされた頃だったと思う。
 現実と夢の世界を往復しているような状態になりつつあった母が、ある日、私の帰り際にこう言ったのだ。

「さよなら」と。
 その声は妙に大きく、母は私をじっと見つめていた。

 その後も、もうまともな会話は交わせなくなってはいたけれど、それでも何かしら話していたように思う。
 でも私は、母の「さよなら」の言葉以降の会話を、全く覚えていないのだ。

 母が亡くなったのは、それから2週間ほど過ぎた翌年の1月のことだった。
 入院したのが平成5年1月13日。葬儀の日が平成6年1月13日。
 こんな結末を迎えることを、当時予想もしなかった。

 先日の夜、父から突然電話がかかってきた。
 母から父の介護をバトンタッチして以降、父が家に電話をかけてきたことなど、1度もなかった。

 父とは、前日に会ってしゃべったばかりだった。それなのに私は、誰からの電話かが理解できずに、絶句してしまったのだ。

「もしもし、わしや」
「・・・ど、ど、ど、どないしたん?」
「昨日言うの、忘れとったんや。鯉のえさがなくなりそうやから、今度買うて持ってきて。頼むわ」

 父が今入所している施設の庭に、小さな池がある。その池に、鯉がいるのだ。

 父は昔、釣りが好きだった。
 釣り上げたフナと、どこかで手に入れた鯉と金魚を同居させて、我が家では長い間水槽で飼育していた。特に金魚の成長はすさまじく、最後まで生き残ったのが、えさをたらふく食べて成長した、超巨大金魚だった。

 たぶんそんな頃の事を思い出したのだろう、父はパンくずを鯉に与え始め、なついてくれる鯉に次第に愛情が湧き、私に鯉のえさを買ってくるように頼むようになったのだった。

「うん、わかった。今度持って行くわ」と答えた私に、父はさらに言葉を続けた。

「今、何してんねん?」
「う、うん、今会社から帰ったとこや」

 心配を掛けてはいけないと思い、私は父に会社をやめたことを、まだ伝えていない。だから、少々しどろもどろになってしまう。

「そうか、遅いんやな」
「うん、これから晩ご飯食べるわ」
「はよ寝ろよ」
「うん」

 そして父は、こう言って電話を切ったのだ。
「ほな、おやすみ」と。

 その言葉を聞いて、私は再び絶句してしまったのだ。予想もしない言葉だった。親に「おやすみ」なんて言われたこと、何年ぶりだろう。
 そしてその「おやすみ」には、会っている時にはわからなかった父の寂しさが垣間見えた。私の心と体は、ざわざわした。

 母は亡くなり、父は病院や施設暮らしなので、家にいるのは私だけである。
 それなのに私は今、出かける時に玄関で「いってきます」と言い、外から帰ってきた時に「ただいま」という言葉を口に出している。

 私たち親子は、本当はとても寂しがり屋だったのだ。
 それなのに3人で暮らしている頃は、お互いを認め合えず、お互いの寂しさにも気付くことができなかった。

 お見合いで結婚したものの、お互いの価値観や性格がことごとく違ったこともあって、私の両親はいさかいが絶えなかった。そしてますます心は離れていくのだが、離婚はしなかった。
 理由はただ一つ、私がいたからだ。

 父は気が小さいくせに、見栄を張りたがる人だ。宵越しのお金は持たない人で、一晩で月給を博打で使い果たしたこともあったらしい。
 そして酒をお茶代わりに飲む、正真正銘の大酒飲み。仕事が終わって、素面でまっすぐ帰宅したことなんて、なかった。

 母は妙に神経質で、潔癖な人だった。とにかくきちんとしていなければ気が済まない。
 若かった頃は、朝早く起床して、全ての部屋の拭き掃除をして、家族の朝食を作ってから、フルタイムの仕事に出かけるという毎日を繰り返していた。
 父が博打で新たな借金を作らないように、帰宅しない父の行方を捜し回るのも、母の重要な仕事だった。

 毎日がそんな日々の繰り返しで、母は疲れていたのだと思う。母は、父に対して最後まで恋愛感情は持ってはいなかった。
 でも父にとっては、母は頼りになる存在だった。

 そんな2人だったので、私への愛情もちょっと屈折していた。
 両親それぞれが、私が味方でいてくれることを望んでいた。それが、両親なりの私への愛情表現だったのだ。
 それは、私にとっては非常に重荷だった。私は1人で過ごすのが、一番好きだった。

 だけど特に母は、私へ過剰な期待を寄せていた。
 同時に、父との間に築けなかった夫婦の愛情までも、私に重ね合わせてきたのである。

 入院してからの母は、それまで以上に全身全霊で私に依存してきた。とにかく、何もかも、全てである。

 入院して2ヶ月後、母は一時危篤状態に陥った。私も病院に呼び出された。
 だけど母は、一命を取り留めたのだ。奇跡だと言われた。その時に死んでいてもおかしくなかったのだ。

 母は、「さよなら」という言葉と共に、今までつないでいた私の手を離したのだ。
 全てを手放す寂しさを乗り越えるには、2ヶ月という時間は短すぎた。母にとっては、1年という月日が必要だったのだ。

 平成6年1月10日、母は昏睡状態に陥った。私は母の姉妹たち数人を呼び集めた。
 その夜、数々の偶然が重なり、病室に母と私だけが残される時間が訪れた。

 昏睡状態の母のすぐそばで、私は小さな声でこう語りかけた。
「もういいよ、しんどかったらもうええよ。後は私が、がんばるから」。

 その瞬間、母の心臓は止まったのだ。
 偶然だったと思う。でもあの瞬間が、私の手を離したけれど旅立てなかった母が、覚悟をした瞬間だったと、私は今でも信じている。

 母が「さよなら」に別れの寂しさをのせたように、父は「おやすみ」という言葉に、今の自分の寂しさをのせたのだ。
 私は、父の気持ちに、とまどってしまったのだと思う。

 父は、私にいつでもそばにいてほしいのだ。父は、家に帰りたいと心から願っているのだ。
 1日1日、父は父なりの寂しさを乗り越えているのだ。

 そして私にも、父の望みに充分に応えてやることができない寂しさがある。
 寂しさに胸がつぶれそうなのは、父も母も私も同じなのだ。

 母が発した「さよなら」、父が発した「おやすみ」。
 私をどうしようもなく切なくさせた、両親の言葉。子供に託す形でしか寂しさを表現できない、両親。
 私自身の寂しさを両親にぶつけられなかった、私。両親の本当の寂しさを今頃理解し始めた、私。

 私たち親子は、どうしてこんなに不器用だったんだろう。