「ひーエッセイ」 バックナンバー

 

 

   

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★★ひーエッセイ★★ '02/06/11(Tue)
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第48巻 「衰えの玄関口」
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 最近、若い頃には感じたこともなかった「衰え」というものが、私の背後に音もなく忍び寄ってきていると実感している。

 学生の頃は、深夜映画やビデオを朝方まで見て、そのまま学校で授業を受け、帰りにバイトに行くことだってへっちゃらだった(授業中にちょくちょく寝てはいたけど)。
 それに休みの日には「寝だめ」することもできたので、少々無茶をしても、疲れが蓄積するなどということは、あまりなかった。

 女性は30代前半、男性は40代前半に、いわゆる「厄年」という鬼門を通過しなければならない。
 私はこの鬼門通過中、体調が絶不調だった。夜更かしも、寝だめもできなくなった。寝過ぎると、かえって気持ちが悪くなる。そしてとにかく、無理がきかない。
 「今まではこんなじゃなかったのに」と、心の中で焦る。だけど、それまでと同じペースで生活していると、体が悲鳴を上げる。
 体調不調よりも、心と体のギャップの方が、私は苦しかった。

 たぶん「厄年」っていうのは、若さと老いの境目なのだ。今までは踏みっぱなしだったアクセルを少しゆるめて、いつでもブレーキペダルを踏めるような訓練をすべき時期なのだ。
 昔の人の言葉は、やはりあなどれない。

 さて、私が地獄のような鬼門を必死の思いで通過してから、もうずいぶん経つ。体調は比較的いいのだが、最近の私は頭が健忘症である。
「喉まで言葉が出かかって、出てこない」という状況に追い込まれることが、目に見えて増えている。

 私の母は、50歳前後くらいから、いわゆる「こそあど言葉」を連発するようになった。

「あれとそれを、これして」
「あれとそれって言われても、わからへんがな。どれ?」
「そやから、それやがな」
「わからへん!」

 最初の頃はこういうやりとりが多く、言い争いが絶えなかった。それでも慣れというのは恐ろしいもので、母の視線や話の流れで「あれとそれを、これして」と母が言えば、「りんごとバナナを、仏壇にお供えして」という感じで、私の脳みそが自動解析するようになったのだ。
 私はまだ母のような状態には陥っていないが、それでも若い頃には何の苦もなく覚えられたことが、今は気合いと根気が必要になった点においては、母とたいして変わりはない。

 昔、「たのきんトリオ」の3人を区別することなど、造作もないことだった。トシちゃん、マッチ、ヨッちゃんの本名だってすぐ覚えられた。両親が「全員おんなじ顔に見える」とぶつぶつ言うことが、信じられなかった。
 時代は流れ、「V6」だの「嵐」だのというグループが、テレビの中で歌い踊っている。私の両親から見た「たのきんトリオ」と同様、今の私には、彼らの顔が全て一緒に見える。「V6」はまだましだが、「嵐」にいたっては、メンバーの顔の区別が全くつかない。名前もわからない。運良く名前と顔を覚えたとしても、しばらくすると忘れてしまう。

 数分前まで覚えていたことを忘れ、それが思い出せないということぐらい、精神に負担がかかることはない。そのうえ、絶対に忘れてはいけないことから順番に忘れてしまうので、始末が悪い。

 これが進化すると、言い間違いや思い違いがやたら多くなるのだろう。母の「あれをこれして」が笑い事ではなくなる日も、そんなに遠いことではない。
 私の思考回路もいつか、迷走を極めるのだろう。両親のように。

「そこにあるそれ、とってんか」
「ぎょうさんあるけど、どれ?」
「塩、ちゃう(違う)、砂糖、ちゃう、こしょう、ちゃう、味の素!」

 私もいつか、どれだけ指摘されても、思い違いの訂正ができなくなるのだろう。両親のように。

「あ、わにぶちが、テレビに出てる」
「へ、『わにぶち』?」
「うん、この子、ええ歌を歌ってんな、いつも」
「・・・この人、『わにぶち』とちゃう。『ながぶち』や。長渕剛。なんべん言うたら覚えんねんな!」
 母はいつも、女優の鰐淵晴子(わにぶちはるこ)さんと名前を混同していたのだ。

 年齢を重ねると、言い間違いや思い違い、忘れっぽくなるという現象は、起こるべくして起こる。幼少の頃から両親や祖母という生身のワクチンを接種していた私は、ある程度免疫ができていた。でも今、免疫ができていない問題に直面している。
 それは「見間違い」である。

 学生時代、通学路の途中に映画館があった。そこで「いつか誰かが殺される」(渡辺典子さん主演、懐かしの「角川映画」です)という映画が上映されていたことがあった。入口上に掲げられた大きな看板に書かれた、映画のキャッチコピーを読んだ私は、思わず目を疑ってしまった。
「・・・誰かが私を狂ってる」。

 明らかに「狙ってる」の書き間違いだったと思うのだが、その映画が終了するまで、看板の字が訂正されることはなかった。けれど、毎日その看板を見ながら通学している友達で、その間違いに気付いた人はいなかった。
 そんな他愛もないことを密かな自慢にしていた私にとって、今の状況は耐え難いことである。

 少し前だが、テレビにKinki Kidsが出て新曲を歌っていた。画面には、その新曲のタイトルが映し出されていた。
「ふーん、『カシナミブルー』か・・・カシナミブルー・・・? 何じゃそりゃ?」
 不思議に思った私は、もう一度画面を見直した。正しいタイトルは、「カナシミブルー」だった。
 見間違いに気付くまでに要した時間は、ほんの数秒である。でもこの時、とても情けなく感じたのだ。そしてもっと情けないのが、その後何度その題名を見ても「カシナミブルー」と見えてしまうことだ。

 こんなことは他にもたくさんある。
 最近「麻波(まっは)25」というグループの歌が流行っているが、そのグループ名を最初に見た私は、「麻婆(まーぼ)25」と読んでしまった。
 新聞や雑誌の段組記事を読んでいる最中に、上段と下段の言葉を一緒に読んでしまって、訳がわからなくなってしまったことだってある。

 そんな中での極めつけは、つい最近、ある喫茶店の外に置かれている看板に書かれていた「ランチタイムメニュー」の「ラ」の字を「う」と見間違えたことである。
 「ラ」の字がかなり丸文字で書かれていたせいもあるのだが、自分のあまりの見間違いに、私は人混みの中でへたりこみそうになった。回りに知った人がいず、口に出して読まなかったのが不幸中の幸いだった。

 すぐ気付くことができた小さな「見間違い」なら、くよくよせずに笑い飛ばしてすませられるよう、私は今必死で免疫ワクチンを製造中である。

 どんなに健康に留意していても、体の機能は年齢を重ねる中で確実に落ちていく。だけど、「自分はまだまだやれるんだ」という思いを、私は強く持っている。
 だけど、体の衰えの玄関口で、呼び鈴を押そうと手を伸ばしかけている世代である私。現実は厳しい。

 持久力が落ち始め、仕事に連続して集中できる時間が、だんだん短くなってきている、私がいる。
 単純ミスを犯すことが確実に増えている、私がいる。でも、他人の間違いには妙に鋭くなっていたりする、私もいる。
 ただでさえ少ない髪の毛が細くなってボリュームがなくなり、以前よりも確実に白髪が増えた、私がいる。
 友達と「人間ドックで検査を受けた」だの「子宮筋腫になった友達がいる」だのという、健康に関する話題で盛り上がっている、私がいる。

 誕生することと死ぬことだけは、誰しも平等に与えられるものだ、という意見を聞いたことがある。けれど、速度や程度の違いはあるけれど、「体の衰え」も同じではないかなと思う。
 でもどんなに体が衰えたり、たとえ痴呆状態になったとしても、人格までも衰えさせたくはないと思ったりしている。

 将来はクローン技術などが発展して、生き物の衰えをも止められる時代に入っていくのかもしれないが、私はそこまでして衰えを止めようとは思わない。
 何事にも、始まりがあれば、必ず終わりがある。どの生物の一生もこれの繰り返し。これは普遍の真実だと私は思っている。

 もしかしたら現代は、生き物としての衰えを社会全体で許容できる世界ではないから、クローン技術などを推進させようという人たちが出てくるのではないかと、漠然と思ったりする。

 少しずつ少しずつ忍び寄ってくる、「衰え」。それはきっと、悩みや苦しみももたらすだろう。けれど、避けることができないのなら、少しでも上手に付き合っていければなあと考えたりする、今日この頃である。

 だけど、こんなわかったようなことを書いてはいても、いざ自分に「更年期障害」が襲ってきたら、きっと右往左往してしまうんだろうな。