「ひーエッセイ」 バックナンバー

 

 

   

<ひーエッセイ 第47巻 ★★光の母 闇の母★★>
発行日:'02/06/04(Tue)


 今から20年以上前、「花とゆめ」という漫画雑誌を購読していた時期があった。
 私は中学1年の時に交通事故に遭い、2ヶ月ほど入院していたことがあった。病院の売店で退屈しのぎに買った雑誌のうちのひとつが、この「花とゆめ」だったのだ。
 月2回発行の「花とゆめ」の発売を、私は本当に楽しみにしていた記憶がある。

 当時は美内すずえさんの「ガラスの仮面」が、怒濤のような勢いで連載されていた。圧倒的な人気を誇っていた演劇ドラマで、テレビアニメ化だけではなく、ドラマ化や舞台化もされた作品である。他にも、魔夜峰央さんの「パタリロ!」、和田慎二さんの「スケバン刑事(でか)」が連載されていた。
 このお三方は、当時の「花とゆめ」の看板作家で、20年以上経った現在も、ばりばりの現役人気漫画家として君臨されている。

 和田慎二さんは「スケバン刑事」の連載を挟んで、もう1本連載漫画を描いておられた。私個人としては、「スケバン刑事」よりも好きな漫画だった。
 その作品の題名は、「ピグマリオ」という。

 懐事情もあり、この「ピグマリオ」の単行本(全27巻)を、私は当時揃えることができなかった。買うことができる状態になった頃には、絶版となってしまっていた。
 「『ピグマリオ』をもう1度読みたい」という執念は、ずいぶん長い間私の心の中でくすぶり続けていた。「花とゆめ」出版元の情報も時々チェックしていたが、何の成果もなかった。

 ところが去年、「花とゆめ」に当時掲載されたイラストまでを全て網羅した「ピグマリオ完全復刻版」が、月に1冊ずつ刊行されているという情報をキャッチした。
 出版元は、「花とゆめ」出版元とは違う会社だった。

 私を狂喜乱舞させた情報を提供してくれたのは、第15巻「悪循環な人たち」に登場した、Tちゃんだった。彼は30歳を越えた今でも、結構マニアックなアニメファンである。
 彼も「ピグマリオ」が好きで、私が「ピグマリオ」ファンであることもよく知っていた。何しろ、彼を「ピグマリオ」に引き合わせたのは、この私なのだから。
 「アニメファンになってしもうたんは、ねえちゃんのせいや」と、私は彼に未だに言われ続けている。

 それはともかく、私は早速何軒かの本屋を回った。しかし買う人が少ないのか、「ピグマリオ」が店頭に並んでいる本屋はごくまれ。置いてあっても数冊程度というありさまだった。毎月、発売初日に本屋に通うのが、私の定例行事となった。それでも手に入らない時は、ネット上の本屋にないか探し回った。
 「もう一度読みたい」という執念が再度燃え上がった私に勝てるものなど、ありはしない。

 先月末、「ピグマリオ完全復刻版」は無事完結し、私は全12巻を手元に揃えることができた。

 私が中高校生だった頃は、今のようにアニメが社会的にも認知されている時代ではなかった。純文学を読む学生が減り始め、反対に漫画雑誌を読む人が増え続けていることが社会問題となっていた。
 この傾向を由々しき事態と考えていた大人たちは、「漫画を読んだら、あほになる。読書するなら、純文学」と言い続けた。だけど「読んだらあほになる漫画」などはそう滅多にないということを、子供たちはよく知っていた。

 先に書いた美内すずえさんや魔夜峰央さんと同様に、「ピグマリオ」作者である和田慎二さんは、稀代のストーリーテラーである。物語の展開が緻密で、読み応えがある。何よりも、ストーリーがよく練られていて奥が深い。
「ピグマリオ」は、大人が読んでも十分読み応えのある作品である。

 物語の舞台は、神話が現実の世界として営まれていた時代である。主人公は、東方にあるルーンの国の皇子、クルトである。
 彼は8歳になる直前、王宮の奥に隠されていた彫像が、母ガラティアの変わり果てた姿だと知る。

 ガラティアはもともと、天界に住む精霊だった。精霊と人間との恋愛は、タブーであった。人間と恋をした精霊は、黄泉(よみ)の国を漂い、二度と精霊には戻れない。
 だがガラティアは、ルーン国王ステファンと愛し合い、苦難の末結ばれて人間となった、唯一の精霊だった。

 ガラティアを石に変えたのは、闇の世界を率いる妖魔メデューサ。ガラティアが人間と結婚し、子供まで授かっていることを知ったメデューサの、怒りの所業だった。
 メデューサは、全ての生き物を石に変えてしまう妖力を持っていた。

 精霊の力を受け継ぎ、生まれながらに力が強かったクルト。母を救うためには、メデューサを倒すしか方法がないことを知った彼は、遙か西の果てに住んでいるメデューサを倒すために、たった1人で旅立つ。
 ガラティアへの思慕と、メデューサへの憎しみにかられた旅立ちだった。

 途中、かけがえのない仲間たちとの出会いと別れがあった。旅先で、石にされている人々は母だけではないと知った。様々な神々たちとも出会った。
 クルトの旅は、真の王となるため、果ては創世王(ピグマリオ)となるための旅だったのだ。
 メデューサが放つ使徒や下僕(しもべ)たちとの戦いを繰り返しながら、苦難の旅を続けたクルトは、ついにメデューサと相まみえる。

 最後の戦いの直前、クルトは思わぬ真実を知る。
 遙か昔、「虹の谷」と呼ばれる場所に、神々の時代の後を引き継ぐ創世王(ピグマリオ)を産む女性が住んでいた。しかしある時、虹の谷は崩壊し、その女性も命を落とす。しかしその女性が死ぬ間際、その女性から星が飛び出し流れた。1つは東に落ちて、精霊ガラティアが、1つは西に落ちて、妖魔メデューサが生まれた。
 つまりクルトの母親は、ガラティアであり、メデューサでもあったのだ。

 ガラティアを石にした、憎きメデューサ。けれどメデューサは、母の半身でもあった。それを知ったクルトは、メデューサへとどめをさすことをためらい、涙を流す。
 そんなクルトを見て、メデューサは叫ぶ。

「私を・・・倒せ、クルト! 母を慕い、母を思いやるも子の運命(さだめ)。しかし、のりこえねばならぬ母の存在もあるとしれい! 戦わねばお前は、子供のままだ。母にのみこまれて生きる者に、王たる資格はない。ガラティアが光の母ならば、私はおまえの闇の母・・・。わたしの生命(いのち)をとって、王たる証(あかし)を見せてみよ。この戦いの意味がわかるなら・・・母を倒してみせよ!」

 ガラティアを石にした時、メデューサは赤ん坊だったクルトを石にすることだってできたのである。でも彼女には、それができなかった。
 メデューサの母としての心の叫びを聞いたクルトは、ためらいを捨て、メデューサを倒す。

 このセリフを読んだ私は、体中に鳥肌が立つような思いがした。思わず涙が出そうになった。
 この作品の中で、作者が読者に伝えたかったメッセージのうちのひとつが、このセリフだったのだ。

 約20年ぶりに読み返してみて、昔とは全く違う目線で「ピグマリオ」を読んでいることに、私は自分でも驚いてしまった。
 こんなセリフがあったことなど、全く記憶がなかった。
 20年という時間の経過、環境の変化。今、この時だから、私にはこのセリフの本質が身にしみたのだと思う。

「光の母、闇の母」。この言葉に、私は両親、特に母とのつながりを思う。

 母がまだ元気だった頃、私は母の「光」の部分しか見ていなかったような気がする。母を母としては見ていたけれど、人間としての母を見てはいなかったと思う。
 母が放つ光についていけば、迷うことはなかったし、考える必要もなかった。母の心の闇を理解しようなどとは、思いもしなかった。

 人はたぶん誰しも、光と闇の部分を持っているのだろう。親子はそれを理解し合うために、闘わなければならないのかもしれない。
 闘うことで親を乗り越えていく子供もいれば、親を乗り越えられない子供もいる。だけど、お互いを理解し合うための親子の闘いは、決して無意味ではない。
 そんな大切な闘いを、私たち母子は避けていた。母はたぶん、私に自分の闇を見せたくなかったのだろう。

 母が亡くなってから、それまで母の光にすがって生きていた私は、どう歩いていっていいかもわからなかった。
 そんな中、いろいろな人たちから、私の知らない母の一面を知らされた。私は、母の闇の部分を知りたいと強烈に思った。
 母の闇を知ることは、生身の母を知ることだから。

 母の喜びや悲しみ、そして私への頑なまでの思念は、母の光と闇が作り出す「影世界」であったということが、最近になってやっとわかりかけてきた。
 この年になって、私はやっと「闇の母」を理解し始めているのかもしれない。

 両親、そして私自身の、光と闇。三者三様の光と闇は、お互いの人生の中で複雑に混じり合い、影を作り出す。影を切ることは、不可能だ。

 父も母も、私の一部分なのだ。父や母の一部分が、私なのだ。