「ひーエッセイ」 バックナンバー

 

 

   

<ひーエッセイ 第42巻 ★★アナログとデジタル★★>
発行日:'02/04/30(Tue)


 大阪市内には何本もの地下鉄があるが、一番乗降客の多い線が、地下鉄御堂筋線(みどうすじせん)である。
 私も時々利用するのだが、この御堂筋線には地下鉄という名前ながら地上を走る区間がある。その区間は高架になっていて、改札口はホームの下にある。

 西中島南方駅も、そんな高架駅のひとつである。この駅には、改札口からホームに上がるための上りエスカレーターが設置されているのだが、ホームに上がると「降りられません」と大きな字で書かれた、張り紙が目に入る。私はそれを見るたびに笑ってしまう。それと同時に、その張
り紙のあまりのセンスのなさに、私はげんなりする。

 この駅には、下りエスカレーターがない。慌てている人がうっかり駆け下りようとすることもあるのだろう。子供たちが逆走して遊ぶこともあるのだろう。それなら、その旨を注意・勧告する張り紙を貼れば済むことである。
 だけどわざわざ「降りられません」と書く意図は、いったい何なのだろう。

 それが上りのエスカレーターであることは、一目瞭然である。「降りられない」のは「あたりまえのこと」なのである。
 私には、「『降りられない』と書いておけば、万一怪我をした人が出たとしても、責任を取らなくてよい」という、駅側の責任逃避の姿勢が見えるような気がする。
 この張り紙は、「こっちはやることはやった。あとは知らんでえ」という、ゆとりのかけらもない短絡的な「デジタル思考回路」の賜物だ。

 ケーブルテレビには、買い物情報だけを24時間放映している「ショップチャンネル」というチャンネルがある。このチャンネルでは定期的に、アメリカ製のフライパンが紹介されている。
 このフライパンの売りのひとつが、大きさである。これを視覚的に訴えるために使われるアイテムが、餃子である。

 商品を紹介する人(この番組ではキャストと呼んでいる)は、フライパンにたくさんの餃子を乗せ、「これだけの餃子が、いっぺんに焼けるんですよ」と、フライパンの大きさをアピールする。「熱伝導率がよく、こげつきにくい」というのもこのフライパンの売りなので、それを証明するために、フライパンに乗せた餃子はその場で焼かれる。
 毎回毎回、そのフライパンが紹介されるときは、必ず餃子を焼くシーンがテレビに映っている。

 ある時、キャストがこんなことを言っていた。
「毎回、このフライパンをご紹介する時に餃子を焼いておりますので、お客様から『このフライパンは、餃子しか焼けないんですか?』というお問い合わせをいただくことがあるんですが、そんなことはございませんよ。見ていただいて一番わかりやすいので、餃子を使っているだけです。どのようなお料理にも、お使い頂けますよ」

 「餃子しか焼けないフライパン」などに商品価値がないことくらい、考えればわかることだ。それにこのフライパンは、アメリカで主に使われている商品である。アメリカの人が、日本人のように頻繁に餃子を焼いて食べているとは、思えない。
 目で見たことをそのまま答えとして受け止める、あまりにも短絡的な「デジタル思考回路」の持ち主が、ここにもいる。番組内でわざわざこんなことを言うということは、こういう問い合わせをする人がかなり多いのだろう。

 先日、電気店に行った。入口付近のワゴンの中に、電卓が山積みされていた。その電卓には、「この電卓は、学校の先生方が推薦しています」というキャッチコピーが書かれていた。
 今年から小学校で電卓を使うようになったということを、私はこの時初めて知った。

 私は小学校の頃、そろばん教室に通っていた。そろばんを通じて、十進法を知らず知らずのうちに学んだ。学校で習った九九とそろばんが、自然につながった。暗算をする時は、頭の中にそろばんの珠を思い浮かべて計算する癖がついた。これが後々、スーパーでのバイトで大いに役立った。私が「マイ電卓」を持ったのは、社会人になってからだ。
 こんなアナログな小学校時代を送った私にとっては、隔世の感がある。

 私には、小学生や教師に知り合いがいないので、授業中どのような形で電卓を使用しているのか、詳しいことはわからない。
 週休2日制が導入されて、いちいち筆算をしている時間がなくなってしまったので、「それなら電卓を使わせればいい」という発想で導入されたかどうかも、定かではない。
 円周率が3.14であろうとなかろうと、3の平方根が2.2360679(ふじさんろくおうむなく)ではなく、1.7320508(ひとなみにおごれや)であるということを記憶していようがいまいが、生きていくうえで困ることは何もない。「だから電卓でいいじゃないか」という発想が国から出てきたかどうかも、定かではない。

 でも私は「授業時間が削られて、電卓使用が許される」という結論に、危うさを感じてならないのだ。電卓使用を国が決めたということは、難しいことは考えなくてもよい、結果がわかればそれでいいんだと、国が認めたような気がしてならない。もしそうなら、明らかに世の中と逆行している。
 なぜなら、世の中は、デジタル的に動いているわけではないのだから。

 私は学生の頃、理数系の科目が嫌いだった。小学生の頃から、算数の文章問題が特に苦手だった。「この問題は植木算形式の問題なので、こうやって解けば答えが出せます」という回答を見ると、めまいがした。
 他にもいろいろなパターンがあったが、何にしろ出てくる答えは一つだけ。解き方も丸暗記。成績が抜群によくて、私立の中学に進学するようなクラスメートは、すらすらと答えを導き出している。
 私はどうしても、答えが一つしかない算数が好きにはなれなかった。

 それに比べると、国語や英語といったいわゆる文系科目には、答えがたくさんあった。感想文などを書くことは、私は大好きだった。人それぞれ解釈が違うということが認められることが、うれしくておもしろかった。
 理数系には、正解か不正解かという選択肢しかない、いわゆるデジタルの世界だと私はずっとそう思っていた。
 そんな私の考えが変わったのは、猫十字社さん作「小さなお茶会」という漫画に出てくる、あるセリフに巡り会ってからだ。

 学生の頃、数学が苦手だったという妻が、夫にこう話しかける。
「答えが一つしかないのって、なかなか付き合いづらいのよ。だっていろんなもの・・・好きなときもあるし、好きじゃないときもある。答えは決まらないわ。答えがほしくないときだってある」

 答えが一つしかないから、心おきなく夢中になれる面もあると考えている夫は、こう答える。
「それなら『好き』をめがけていろんな方法、試してみるのは? 『好き』っていう答えは一つ、じゃ、「好き」をなるべく大きくするにはどうするか?」
 私はこのセリフから、答えは一つでも、その答えにたどり着く方法は一つではないという、ごくごくあたりまえのことを教えてもらった。

 植木算は、先人たちが編み出した解き方の中では最も効率が良く、小学生でも理解しやすい解き方の一つに過ぎなかったのだ。
 それに引き替え、「降りられません」張り紙や、「餃子しか焼けないフライパン」問い合わせや、「小学生に電卓を使わせよう」という考えに行き着くまでに、それに関わった人たちは、いったいどんな解き方の経路をたどったのか。
 自称アナログ人間の私には、それが全く見えない。だから怖いのだ。

 いつでも、何事に対しても、即座に一つの答えを出さなければならない、そんなデジタル的な場面に遭遇することが、最近増えてきたなあと思う。
 深く考え、長期的展望を持って物事を進めるということが許されない。どんなことでもすぐに答えを出さなければ、能力がないとみなされてしまう。

 景気が悪いせいかもしれないけれど、何だか怖い世の中になったと思う。デジタルがもてはやされる時代の中で、生きていくのは大変だ。
 こんな時代が続く限り、もしかしたら短絡的で悲惨な事件は、減らないのかもしれない。政治だって、結局変わらないのかもしれない。
 小学校での電卓使用を国が許したのだから、仕方ないのかな。

 アナログとデジタルの両面を保つことが大切だと思う、こんな私の考えはもう古いのだろうか。