「ひーエッセイ」 バックナンバー

 

 

   

<ひーエッセイ 第41巻 ★★私が最近、怒っていること★★>
発行日:'02/04/23(Tue)


■その1 「ちょボラ」への怒り

 以前、「指1本でできるボランティアがあります」というキャッチコピーのCMがあった。
 車椅子の青年がビルのエレベータに乗ろうとするのだが、扉が閉まったりしてうまく乗れない。そこへ女性が走ってきて、エレベータの「開」ボタンを押して、青年を手助けする。そのシーンの最後に、冒頭の言葉が流れるのだ。
 私は、このCMは嫌いではなかった。ただ、「これがボランティアなんかなあ?」という疑問は、心の中に常に抱いていた。

 最近、「ちょボラ」という言葉をキャッチコピーにしたCMが放送されている。「ちょボラ」というのは、「ちょっとしたボランティア」という意味らしいのだが、私はこのCMが大嫌いだ。

 歩道いっぱいに止められた自転車が邪魔で、車椅子の青年が道を通れない。困っている彼のために、別の青年が自転車をどけて、車椅子の青年が通れるようにしてあげる。そこへどこからか女性が現れ、「ナイス!ちょボラ」と言いながら、自転車をどけた青年に「ちょボラ」ぬいぐるみを手渡す。
 あるいは、バスを降りようとするおばあさんに手を貸してあげる若者に、またどこからか女性が現れて、「ナイス!ちょボラ」と言いながら、「ちょボラ」ぬいぐるみを手渡す。
 そんな画面の後、たくさんの「ちょボラ」ぬいぐるみが画面一杯に映し出され、「あなたも、ちょボラ、始めませんか?」というコピーが流れる。

 私はこの「ボランティア」という言葉が生まれた背景を、詳しくは知らない。けれど、私はかねがね「ボランティア」というものは、時間的余裕や金銭的余裕のある人たちが、できる範囲の手段や方法を用いて、それぞれの場面で困っている人たちに手をさしのべることなのではないかと思っている。

 だから、ボランティア活動をしたいと思えば、自分のできることを探さなければならない。もしくは自分から進んで活動を始めたり、あるいは団体を立ち上げたりしなければならない。始めることもやめることも、あくまでも任意だ。
 助けられている人が、違う立場で困っている人を助けることだってできる。「こういう活動をしているが、人手不足や資金不足で困っている。協力してくれる人はいませんか?」と、世の中に対してヘルプを求めることもできる。

 言い換えれば、ボランティアというものは、「心の余裕がある人の善意」によって成り立っているものなのかもしれない。

 だけど「ちょボラ」CMは、ボランティアの必要性を訴えるものではない。CMの内容は、「さあ、始めよう」と声を掛け合い、気合いを入れて取り組む類のものではない。言ってみれば、人の本能によるところが大きい。
 こんなことを、公共の電波を使って呼びかけることが、私はおかしいと思うのだ。

 このCMに従えば、悲しんだり落ち込んだりしている、自分の大切な人を励ますことでさえ、揺れるバスの中で小銭をばらばらと落としてしまった人のために、みんなで一緒に小銭を探してあげることでさえ、世の中全ての行為が「ボランティア」という枠でくくられてしまう。

 もしこんなことを「ボランティア」と呼ぶならば、親子のつながりでさえ「ボランティア」になってしまう。
 私が今まで両親と共に悩んだり苦しんだりしたことや、喜びを分かち合ったりしたことも、ボランティア活動の一環だったのだろうか。私は、そうじゃないと信じたい。私は、両親が私の両親だったからつながっていたのだ。親子のつながりに、理屈など何もない。
 私は、私が両親の娘であるという「本能」に司られていたのだ。

 このCMは、いったい何を訴えているのだろう。なぜ、こんなCMが許されているのだろうか。

「人に親切にすることが、社会をよくする第一歩なんだ」という呼びかけなのだろうか。
 もしそうなら、「座席を譲り合いましょう」「ゴミは決まった所に捨ててください」「駆け込み乗車はおやめください」というような、物の道理がわからない子供に対する説教に近い、電車内アナウンスと同じレベルだ。

「人としての本能を呼び覚まそう!」というメッセージなのだろうか。
 もしそうなら、このCMを作成した人たちは、人は時代と共に「本能」さえどこかに捨て去ってしまったと考えたのだろうか。それこそ余計なお世話である。

 人それぞれ、持っている本能は違うと思う。「こういう場面には、こうしなければならない。それが人間だ」と、このCMは強いているように感じて、怒りを覚えてしまうのは私だけだろうか。


■その2 「〜ママ」への怒り

 インターネットの世界では、本名ではなくいわゆる「ハンドル名」を名乗って、交流の輪を広げていくのが通例である。

 いろいろなハンドル名を目にするのだが、「〜ママ」というハンドル名でネットの中を駆け回っている、お子さんをお持ちの女性が最近非常に多いような気がする。例えば太郎くんというお子さんをお持ちの女性なら「太郎ママ」、花子ちゃんというお子さんをお持ちの女性なら「花子ママ」といった具合である。
 反対に「太郎パパ」「花子パパ」などというハンドル名を持つ男性は、今までお目にかかったことがない。どうもこれは、女性特有の行為のようだ。

 ママ同士のコミュニティの中で、このようなハンドル名で活動することは、一向に構わない。だけど中には、どのコミュニティに所属しても、「〜ママ」と名乗り続ける女性が、確かに存在する。
 私は未婚だし、子供もいない。でも仮に子供ができたとしても、「〜ママ」などというハンドル名など、絶対に自分につけないと思う。
 なぜなら、その名前には、自分がないように思うから。

 私は子供にとっての「母」でありたいし、夫にとっての「妻」でありたいし、親にとっての「子供」でありたいし、友達にとっての「友達」でありたいと思う。そしていつまでも、社会にとっての「私」でありたいと願っている。
 こう願っている私は、場所柄をわきまえずに「〜ママ」と名乗る、けじめのつけられない女性に対して、怒りを覚える。

 女性は結婚をすると「〜さんの奥さん」と呼ばれ、お母さんになると、「〜ちゃんのお母さん」「〜くんのママ」と呼ばれるようになることが多い。自分の子供に名前を覚えてもらうことさえも、至難の業らしい。
 既婚女性が自分の名前を呼んでもらう機会は、本当に少ないのだ。だから余計に、自分のことを「〜ママ」と名乗る女性が増えているのかもしれない。

 このような傾向に対して、結婚して子供を持った私の友人たちは憤っている。
「私には名前があるんやで!」
「子供に『〜ちゃんのママ』って呼ばれるのはしゃあないけど、その子のお母さんまでが、同じように私のことを呼ぶのが腹立つ」と。
 だけど彼女たちは「それが今の自分の一面である」ということも把握している。

 だから当然、彼女たちは接する人によって、それぞれ別の顔を見せる。子供との時間もとても大事にしているが、同時に自分のための時間も寸暇を惜しんで取っている。そのけじめの付け方が、とても自然なのだ。
 私は、そんなふうにしなやかに生きている友人たちを、とてもうらやましく思うし、尊敬もしている。自分がもし結婚して母親になったとしても、彼女たちの自然な生き方を見習いたいなと思っているのだ。

 それに引き替え、自分から「〜ママ」と名乗っているような人たちは、「ママ」だけの世界にどっぷりはまり、社会との壁を作り、自ら進んで女性としての魅力を落としているような気がしてならないのだ。
 ハンドル名とはいえ、名前は自分の顔のひとつでもあるのに。

 私自身が未婚だから、子供がいないから、こんなことを考えてしまうのかもしれないと思っていたこともあった。でも私の友人たちは、そんな私にこう言ってくれた。
「それが普通やで」
「そういう思いを持っているのなら、もし子持ちになっても絶対大丈夫やで」
 私はそんな心優しき友人たちと、「自分というものを見失わないように、いい年の取り方をしたいね」って、話をしている。

 私はこれまでに、HPを立ち上げて仕事を求めておられる人たちのサイトを、多数訪問して回った。けじめがつけられない「〜ママ」さんは、ここにも多数登場する。
 彼女たちの多くは、「在宅で仕事をしたいです」という内容の求職ページと、家族の写真や自分の日記などを公開するプライベートページを、同一サイトに作成しておられたりするのだ。
 私はこういうサイトにぶち当たると、作成者の「誇り」よりも、「おごり」が垣間見えてしまうのだ。

 取引先の男性の中には、こうおっしゃる人もいる。
「こういう人は、HPを立ち上げているということが一種のステータスなんですよ。『他の人とは違うのよ!』っていう気分でいる人が多いんじゃないですか。こんなことをしている女性がいる限り、『所詮女性は・・・』っていう偏見はなくならないですよ。女性が自ら墓穴を掘っているようなものです」
 耳が痛い。でも、こういう意見を持つ人が、社会では大多数を占めているのだ。

 けじめがつけられない「〜ママ」に対して「怒り」を持つ私を、私はいつまでも大事にしたいと思っている。それが、自分を保つことだと思うから。
 人はいろいろな顔を持っている。その全ての顔が、紛れもなく自分の顔なのだ。