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<ひーエッセイ 第40巻 ★★父娘喧嘩★★>
発行日:'02/04/16(Tue)


 私の父は、たまに妙なことを言い出す。きっかけはたいてい、お金の話からである。父がこの妙な話を始めると、私は本気で腹を立て、父と言い争いをしてしまう。
 父と私はその昔、すき焼きの肉を巡って骨肉の争いを繰り広げた仲である。だからひとたび言い争いになると、丁々発止のやり合いになる。

「そういうたら、あのラクータ、どこやった?」
「はあ? 『ラクータ』?」
 この「ラクータ」とは、よくお年寄りが使用している、免許のいらない電動スクーター(でいいのだろうか?)のことらしい。

「そんなん、知らへんで」
「あほなこと言うな。わしがF病院におる時に、自分で買いに行ったやつや」
「何言うてんの。あんたが1人で買いに行けるわけないやんか。第一、お金はどうしたん? お母ちゃん(私の母のこと)がそんなお金、あんたに渡す訳がないやんか」
「お金は、わしが分けたやないか。お前もその時、おったやないか。その金、どこにやったんじゃ」
「はあっ?」

 父は、かなり長期間入院していたF病院から、総額1億2000万円の現金を持って、車椅子で家まで帰ったと言うのである。額が多くて運ぶのが大変なので、途中駅前のスーパーで、200円の紙袋を買ったそうである。
 ちなみにF病院から我が家までは、車で約30分ほどの距離である。途中には交通量の非常に多い国道や、坂道もある。父の車椅子操作は非常に上手だけれど、介助なしで家に戻ることなど、正直不可能である。

「その金を、家で分けたやないか。お前も絶対におった。1人4000万ずつ、わしが分けたったやないか」
「あんた、入院以来、いっぺんも家に帰ってへんで。そんな強烈なことがあったら、私絶対覚えてる。それに私、4000万なんてお金、持ってへん。絶対そんなことないって」

 F病院の院長先生にもお金を渡したと言い張っていた時期もあった。4階にある院長室に、自分で持って行ったそうだ。院長先生は、院長室にある金庫にそのお金を入れたそうである。リアルすぎる。

「お前が忘れてるだけや。そのうちの30万で、『ラクータ』を買うた。病院の外に止めてた」
「えー、絶対そんなことないわ」
「わしの金、どないしたんや。お前が全部使うてしもうたんか」
「だから、絶対そんなことないって」
「おかん(私の母のこと)が全部知っとる。聞いてみい」

 父のお金まで全部使ったと言われた私にとっては、とんでもない濡れ衣である。「おかん」は既に亡くなっていたので、確認しようがない。でも父は、「おかん」が亡くなったことは、当時知らなかった。

「そしたらそのお金、どないして手に入れたん?」
「・・・どうでもええやんけ。わしが手に入れたんじゃ」
 現金の入手方法について聞くと、いつも父は言葉を濁らせる。一時は、病院の近くのサラ金で借りたと言っていたこともあった。

 父の話は、どう考えてもつじつまが合わないし、私の記憶にも全くない。だけど話がかなり具体的で、持ち帰った現金の額がそれほど変化しない。どこからこういう話が出てくるのか、ずっと不思議に思っていた。どんな人の話でも、その内容には必ず何か根拠がある。
 私が学校や会社に行って留守の間に、本当に父が戻ってきたのだろうかと思ったこともあった。でもそんなことがあれば、母は私に絶対に言ってくれていたはずだ。

 先週金曜日、父は病院から老健施設に移動した。その夜私は、第39巻「思い出に変わるならば」で登場した、知り合いのおばさん(「泣いてもらってもええんとちゃうか」と言ってくれた人)の家に電話を入れた。相談をしたままの状態だったので、お礼と報告を兼ねての連絡だった。
 ひとしきりしゃべった後、私はおばさんにふと聞いてみた。

「あのお、一度でも父が家に帰って来たなんてこと、ないですよね。母から何も、聞いてませんよね?」
「それは、『ぜったいに』、ないで。お母さんはいっぺんも、お父さんを連れて帰ってきたはらへんで」
 おばさんは「ぜったいに」に特に力を込めて言った。

 母が父を家に連れ帰らなかったのは、父が家にいない生活が本当に穏やかだったせいだと思う。父が入院したことで、母は父との結婚以来、初めて安らぎの時間を得ることができたのだ。顔つきも穏やかになり、性格も少しだけだが円くなり、余裕も出てきた。それまでは本当に神経質で、四角四面で、融通が全く利かない人だったのである。
 そして何より、父の介護に私を巻き込むことを、母は極端に嫌がっていた。

 私はついでに、母から「1億2000万」のことを聞いていないか尋ねてみた。私の話を聞いたおばさんは、電話口で大笑いしていた。その後、こう言った。
「それ、宝くじのこととちゃうか?」
「え、宝くじ?」

 母は、宝くじが非常に好きだった。私が生まれて初めて大阪・梅田の地下街で買った、近畿宝くじのうちの1枚が当選したことがきっかけだったと思う。当選金は10,000円で、俗に言う「ビギナーズラック」だった。その証拠に、それ以降、末等以外の賞金が当たることはなかった。
 ジャンボ宝くじのシーズンになると、梅田のよく当たると評判の売場へ宝くじを買いに行くのが、私の仕事になった。私が買いに行けなくなってからも、勤務先の同僚たちと協力し合って購入していた。
 こんな出来事があったこと、私はすっかり忘れていた。

「お母さん、もし1等が当たったら、家を建て替えて、余ったお金をみんなで分けんねんって、よう言うたはった。そんなん当たったら、罰が当たるって言うて、よう大笑いしたもんや。ほんまにこのことは、私にもしょっちゅう言うたはったで」
「そういうたら、そうでしたねえ」
「お母さん、家でもそのことをよう言うたはったんと違うか? お父さんはそのことを覚えたはるんやで。そやけどもう、昔と今との時間感覚が無茶苦茶になってしまって、そんな話になってしまうんと違う?」
「はあ、なるほどねえ・・・」

 おばさんの鋭い指摘に、私はびっくりした。だけど母は、確かに家でも「宝くじが当たったら、家を建て替える、お金を分ける」と、よく言っていた。
「宵越しの金は持たない」という言葉を地でいく父は、「お金を分ける」という言葉だけを頭に刷り込んでしまったのかもしれない。

 ラクータのことに関しても、おばさんの指摘は明快だった。
「それ、車椅子のことと違うか? 車椅子を買ったん、F病院におった時とちゃうかったか?」
「うーん、あんまり覚えてませんけど・・・」
「『病院のを借りられへんの?』ってお母さんに聞いたら、『借りられるけど、傷つけたらいかんから買う』って、確か言うたはったで。お父さん、車椅子の運転がものすごう上手なんやろ? それまでは病院の車椅子を使ってたんが、自分の車椅子をお母さんに買ってもらったんがうれしくて、印象に残ってるんと違う?」
「その車椅子の代金が、もしかしたら30万円?」
「そうとちゃうかな」

 父の話の根拠が何となく見えたことで、それまで抱いていた私の疑問は解けた。でもいざ知ってみると、何だかとてもせつない気持ちがわき起こった。
「痴呆」と「物忘れ」の境界線は私にはわからないけれど、父が痴呆状態に近づきつつあるのは確かなようだ。短時間に、同じ言葉を何度も繰り返すことが、最近どれだけ多くなったことか。
 最近の父の記憶容量は、昨日、今日の出来事が限界である。だけど、20年以上前の記憶は鮮明だ。

 昔の思い出話を始めると、父のおしゃべりはなかなか止まらない。
 前の奥さんに結婚式を挙げてすぐ逃げられたとか、母との新婚旅行で父がお金を全く持参せず、支払いは全部母がしたとか、独身時代に行った女郎屋さんの話とか、母の口からは決して語られることがなかった話を聞いたのも、ここ1〜2年のことである。
 生真面目だった母は、こんな話が大嫌いだった。母がいたら、こんな話は一生耳にすることはなかっただろう。

 昔からそうだった。野放図な父と神経質な母という両極端な両親に挟まれた私は、2人から別々に両極端な話をよく聞かされた。
 挙げ句の果てに、母は「あんたはお父ちゃんが好きやもんな。あの人の味方やもんな」と嫉妬し、父も「お前はお母ちゃんと仲が良かったもんな」と嫉妬していた。

 父が行くところ、諍いやトラブルが絶えなかった。警官とけんかをして、留置所に放り込まれたこともあった。
 だけど父にとっては、そんな時代がよほど楽しかったのだろう。何度も同じ話を繰り返す。思い出と同化するように。

 つまらないことで言い争いをしたことや、父が思い出話を一生懸命してくれたことを懐かしく思える時が、やがて来てしまうのだろうか。