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<ひーエッセイ 第38巻 ★★抜歯実況中継★★>
発行日:'02/04/02(Tue)


 行かなければと、ずっと思っていた。時間はたくさんあった。でも特に歯医者となると、私の重い腰は一層重くなる。覚悟を決めて、メガトン級の重さになっていた腰をやっと上げたのが、今年1月であった。
 何事も、始めるまではうだうだと考えるたちだが、いざ行動となると私は素早い。
 そんなわけで、私は今、せっせと歯医者に通っている。

 以前は会社の近所にある歯医者に通っていたが、その会社を既に退職してしまったので、今回は家の近所の歯医者に通うことにした。
 歯の様子を見てもらったら、10年くらい前に治療してもらった左下奥歯が既に死にかけていて、歯茎に悪影響を及ぼしそうになっていることが判明した。

 そこで、まずはその奥歯を抜歯し、その歯の前後にある歯に金属をかぶせるという処置をしてもらうことになった。その処置をするには、左上下に生えている親知らずが邪魔なので、それも抜歯することになった。
 先生からはその時点から、「左下の親知らずを抜くと、たぶん腫れるよ」と言われ続けていた。

 左下の親知らずは、ずいぶん前から歯の1部分だけ見えていた。以前通っていた歯医者が、「他の歯に影響を及ぼしているわけでもないので、無理に抜歯する必要もない」とおっしゃたので、そのまま放置していたのである。
 今思えば、抜くのがやっかいだと判断されたからであろう。

 死にかけ奥歯と左上親知らずの抜歯は、既に何のトラブルもなく終了していた。そして先週金曜日、ついにその左下の親知らずの抜歯が挙行されることになった。

 当初この歯の抜歯は、先週の月曜日に予定されていた。偶然にも先々週くらいから、この親知らずの回りの歯茎が腫れ始めていた。理由はわからないが、死にかけ奥歯を抜いて場所にゆとりができたことで、親知らずが活動を活発化させたのかもしれない。
 ところが、抜歯に時間がかかるかもしれないということで、他の患者さんの予約が入っていない時間に挙行するため、急遽日程がずらされてしまったのだ。
 親知らずの回りの腫れは、一向に治まる気配がなかった。それに、痛みも伴っていた。こんな状態で本当に抜歯ができるのか、これ以上日程をずらされたらどうしよう、などと思いながら、予約時間に歯医者に入った。

 親知らずの状態をのぞき込んだ先生は、特に何もおっしゃらなかった。そのまま手に注射器を持ち、「ごめんね」と言いながら麻酔を3カ所ほど、ぷち、ぷち、ぷちっと打たれた。この注射が、結構痛いのだ。
 しばらくすると、麻酔が効き始める。ふと横を見ると、ペンチが置かれている。それを見て、緊張感がずんずん増してくる。

 そしていよいよ、抜歯開始である。過去2回の抜歯には、それぞれ1分もかからなかった。
 だけど今回は、先生の様子が違う。考えながら抜歯作業をされているのが明らかだった。先生は、歯の生えている様子を改めて見て、こうつぶやいた。
「あ〜、こんな風に生えとるんかあ・・・」。
 それから先生と私の、悪戦苦闘が始まったのである。

 1分経ち、2分経ち、3分経っても歯は抜けない。その間、私は口を大きく開けたままである。時には、口の端が引っ張られた状態になり、口やあごが痛くてたまらない。
 先生が途中で手を休めた時、やっと口を閉じることができた。

「ごめんな、もう歯はぐらぐらやねんけど、骨にひっかかって抜けへんねん。歯の生え方も、頬の方向に向かって生えてるし、歯の1部にまだ骨がかぶさってるから、一番やっかいなパターンですわ」
「このはのまわりのはふき、はれてたでしょ?(この歯の回りの歯茎、腫れてたでしょ?)」
「あ、気が付いてた? そうやねん、腫れの原因は、この歯ですわ。さっき麻酔の注射を打ったとき、膿がじゅわーっと出てきてましたよ。(抜くのに)ちょうどええわって思ってたんです」
 私の心配は、杞憂だったのだ。

 その後も、先生はぶつぶつと独り言をつぶやきながら、抜歯に取り組んでいた。でもどうしても抜けない。
 そして最後に、「あまりしたくないんやけどなあ・・」と小さい声でつぶやいて、ごりごりと歯を削り始めたのだ。

 様子を見ることができないので、いったいどこをどうしているのか、私にはさっぱりわからない。麻酔は効いているはずなのに、何だか痛みが感じられるようになってきた。時々顔をしかめると、先生は「痛い?大丈夫?」と声を掛けてくださる。
 このことを口を開けたままの状態で、ふがふがと伝えると、「ごめんな、もうちょっとやから、頑張ってな」という先生の言葉が返ってきた。
 椅子の肘掛けを握りしめた私の体は、既に極度の緊張状態に陥っていた。

 私は、歯医者に行く時には化粧をしない。ノーメークの30代後半の女が、口を大開にして先生に身を任せている姿は、とてもじゃないが好きな人には見せられない。千年の恋もさめるだろう。
 女性のどんな姿態にも動じない人の筆頭は、もしかしたら歯医者さんかもしれない。

 そして数分後、「大丈夫、抜けたで」という先生の声が聞こえた。
 以前抜歯した時は、抜ける前に「めりめりめり」という音がした。今回はなぜかその音が聞こえず、抜けた歯を先生がトレイに置いた「カラン」という音だけが、耳に響いた。

 最後に、切った箇所の縫合をしてもらって終了である。痛みはないが、頬のあたりに糸がすーっと入っていくのが、はっきりと感じられた。黒い糸が、私の目の前を何度か通過していった。
 時計を見ていなかったのではっきりとはわからないが、抜歯だけで15分以上はかかったような気がする。先生も疲れたかもしれないが、私も心底疲れた。

「歯自体は小さかってんけど、まだ骨がかぶさってる場所があってん。骨を削ったらすぐ抜けるけど、そんなことはしたくなかった。だから歯を2つに割って、顔を出してた方を先に抜いて、そのあとで隠れてた方を抜いたんですわ」
 そう言いながら先生は、2つに割れた血まみれの歯を見せてくれた。抜かれた歯の回りは、何だかじんじんしていた。

 抜歯した日は、新たな出血を防ぐために、入浴もうがいも運動もアルコール飲酒も禁止である。念のために、歯磨きもするなと言われる。
 先生の「今回は絶対痛いよ」の言葉通り、麻酔が切れた後、何とも言い表せない痛みがおそってきた。

 ころげまわるほどの痛みでも、眠れないほどの痛みでもない。うまく言えないのだが、「ずしーん」という感じの痛みなのだ。
 つばを飲み込むと血の味がする。それに、何を飲み込んでも痛いのだ。口も痛くて開けにくい。咀嚼もしにくく、食事にいつもの倍以上の時間を費やした。

 そして、だんだん左側の頬やあごあたりの形が変わり始めた。夜にはすっかり、いつもの私とは別人のような顔ができあがった。こんなに自分の顔が腫れた状態を見るのは初めてだった。
 痛いのはしんどかったけれど、顔の変化が面白くて、何度も鏡の前に立ち、福笑いのおかめそっくりになった自分に笑っていた。

 次の日、半分おかめ顔の状態で、消毒をしてもらいに歯医者へ行った。痛み止めの薬が効いたのか、前日より少しだけ痛みもひいていた。
 おかめ顔の私に、アシスタントさんが声をかけてくださった。
「痛くなかったですか?」
「昨日よりは少しだけ痛みがひきました。でも自分の顔を見ると、おかしいですねえ」
「そんなことないです、まだましですよ。もっと腫れる人もいらっしゃいますよ」
「そうですか、でも鏡見て笑ってます」
「(笑いながら)笑えるのは、2〜3日だけですよ」

 消毒の後、先生の説明があった。
「この間の抜歯は、どっこも切らんとそのまま抜いて、ほっといたから腫れへんかってん。でも今回は、傷口を縫ってしまってるから、歯茎の中で出血した血は、出るところがあらへん。だから腫れんねん。わかる?」
「はい」
「そうやなあ、今日か明日くらいから、このへんが黄色くなってくるで(私の口の左側あたりを指さしながら)。あ、もう、ちょっと出てんな。鏡見てみ」
「・・・・(正直言って、黄色いかどうかがよくわからなかった私)」
「これな、中で内出血してるんや。普通、足とか内出血したら、青くなるやろ?」
「はい」
「でもこの場合は、青っていうよりも黄色っぽい色になるねん。抜いた場所と違うとこが黄色くなるから、心配してすっとんできはる患者さんもいたはるけど、全然心配いらへんで。必ず腫れはひくからね」
「はい、わかりました」
「来週、縫ったとこ、抜糸するからね」
「・・・(げっ、また麻酔するんかな、それともそのまま、ぴーっと糸を引っ張って抜くんかな、などと思いながら)はい」

 今は顔の腫れはひいたけれど、縫った所がひきつれるような感じがしている。口を開けるのが、まだ少しつらい。だけど、この抜歯があと数年遅ければ、もっとしんどかっただろうなあと思う。
 気になりながらも、ずっと放置したままだった親知らず。痛みと腫れは伴ったけれど、抜いてもらって気分はすっきりした。

 ああ、早く糸を抜いてもらって、身も心もすっきりしたい。