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<ひーエッセイ 第35巻 ★★消える母校★★>
発行日:'02/03/12(Tue)


 卒業式シーズンである。私が高校時代を終えてから、もう20年近い歳月が流れた。

 高校時代、必修クラブ以外のクラブ活動に参加することを、私は母から禁止されていた。
 学校が終わったら、すぐ家に帰って来て勉強して、4年制(に、かなりこだわっていた)の国公立大学(私学はお金がかかるからダメ)に進学しなさいと、母はよく言っていた。そうすることが、私の幸せにつながると信じていたようだった。
 それに、クラブに入ると何か悪いことを覚えて、不良になるんじゃないかと、母は密かに恐れていた節があった。

 でも「帰宅部」所属の私は、放課後遅くまで教室に残って、母が仕事から帰ってくる時間を気にしながら、友達とくっちゃべる日々を過ごしていた。話すネタが尽きることはなかった。
 授業中には、友達に手紙を書いて回したり、交換日記を書いたりしていた。勉強などは、二の次だった。

 ふと横を見ると、カーテンの陰に隠れて早弁をしている子もいた。こっそり漫画を読んでる子もいた。
 休み時間や放課後には、幼い恋のさや当てが、あちこちで展開されていた。
 笑ったり怒ったり泣いたりしながら、私の高校時代は流れていた。

 私が初めて好きな人と付き合ったのも、高校時代だった。

 彼とは中学2〜3年の2年間、同じクラスで過ごした。3年になった頃から、私は彼のことが好きになった。ちらっと彼のことを盗み見したり、時々会話ができるだけで舞い上がっていた。
 それが、中学3年の時に彼から届いた年賀状の文面から、どうも彼の方も私を好きでいてくれていることがわかった。どういう形を取ったかは覚えていないのだが、彼の気持ちに私も応えた記憶がある。
 だけど、私たちが実際に付き合うようになるまで、それから2年の歳月を必要とした。

 お互いに一歩が踏み出せない様子を見ていた、当時私の親友だったA子ちゃんはいらいらしていた。そしてある日、彼女は私たちの間に入り、彼と私の背中を、どんと押してくれた。
 彼女のおかげで、2人で下校できるようになり、少しずつ彼と私の距離は縮まっていったのだ。

 彼とは、くっついたり離れたりしながら、数年間付き合った。最後まで、「恋」の域を脱することができなかったけれど、とても一生懸命に彼に恋したことは、とても懐かしい思い出である。
 彼と一緒の高校に進学していなければ、付き合うこともなかっただろう。

 将来何をしたいかということもうつろで、はっきりしていなかった高校時代。
 英語が好きだったので、外大に行きたいと思った時期もあった。だけど「何が何でも」という情熱はなかった。母に「国公立に行け」と言われても、何のために大学へ行くのかという目標を持てなかった。
 何よりも、自分の実力のなさは、自分が一番良く知っていた。

 そんな私も自意識だけは過剰で、未来に対する夢だけは、無限大だったような気がする。
 あんな思いを抱いていた時代には、もう戻れない。

 去年の秋、高校の同窓会事務局からはがきが届いた。

 そのはがきには、私が卒業したT高校と近くにあるS高校を統合し、統合後にはS高校の校舎を使用するという案が、大阪府から出ていると書かれていた。
 つまり、T高校が近い将来廃校になる可能性があるので、何とかT高校を廃校にしないよう頑張っていきましょう、という呼びかけのはがきだったのだ。

 このはがきを読んだ私は、「ふーん、仕方がないな。子供の数が減ったもんなあ」と思っただけだった。

 私の学生時代は、とにかく学校に生徒があふれかえっていた。
 私が入学した小学校には、2,000人以上の生徒がひしめいていた。あまりに生徒数が多いので、当時は学校がどんどん建設されていた。私も5年生の時、新設された小学校に移動して、そこを卒業した。
 中学も高校も似たような状況だった。

 T高校の横にはM小学校が、裏にはS小学校があった。この時代、市立の小学校には必ず幼稚園も併設されていたので、昼間のT高校一帯には、数千人の子供たちが集まっていたことになる。

 当時、T高校の全校生徒は1,500人を数えた。各学年、12クラス。1年生は4階、2年生は3階、3年生は2階に陣取り、1組から12組までの教室は、各階に1列に並んでいた。
 1組の子が12組にいる友達に用事があって休憩時間中に会いたいとなると、授業が終わると同時にダッシュである。そうしなければ、休憩時間内に自分のクラスまで戻ってこられない。

 だけど今、子供は年々減り続けている。かつて子供たちであふれかえっていた学校も、今は空き教室が多くあると聞く。
 昔のようなベビーブームが起こることは、当分望めないだろう。学校もリストラされる時代なのだ。

 はがきが届いた頃と時を同じくして、駅前で廃校反対を訴えて、署名活動を行っている人たちがいた。在校生もいたし、大人たちもいた。
 だけど私は、署名する気にはなれなかった。

 先に書いたA子ちゃんは、学校で行われた廃校反対集会に参加していた。彼女はこの廃校計画にかなり憤っていて、熱心な参加者の1人だった。私も誘われたが、「仕事が忙しいから」という理由で断った。
 でもその理由は、嘘だった。もう既にその頃、私は退職していて、時間はたくさんあったのだから。

 この廃校問題は、行政レベルでもいろいろと問題があったらしい。大阪府がどこの意向も聞かず、勝手に起案したものだったからだ。
 廃校対象校をなぜT高校にしたのか等、大阪府から何の説明もなかったらしい。当然、学校側にも寝耳に水の話だった。
 何もかもがあいまいだったため、反対署名もかなりの数が集まったらしい。

 正直に言って、私にとっては、廃校のいきさつなどはどうでもよかった。それより気になるのが、「廃校反対」のシュプレヒコールが、なぜ私の心に共鳴しなかったのかということである。
 卒業して20年近くになるが、一応私の「母校」である。思い出もたくさんある。だけど、なぜ、響かなかったのだろう。

 取るに足らないことを、突き詰めて考えるのは、私の悪い癖である。

 私は、電話を「何となくかける」ということができない。加えて、さほど筆まめというほどでもない。要するに、めんどくさがりなのだ。
 だから、どんなに仲良くしていた友達でも、卒業や退職という別れの節目を通り過ぎると、私はその人たちにすすんで接触したりはしない。
 そしてまた新しい場所で、新しい出会いと別れを繰り返す。

 こうすることで友達と疎遠になっても、「その人とは、それまでなんだ」と思う私は、結構薄情な人間なのかもしれない。
 だけど不思議なことだが、縁のある人とは、別れの節目を乗り越えてつながっている。たとえ疎遠になっても、縁のある人とは何かがきっかけで、必ず再会できているのだ。お互いの変化で、再会後は昔より濃密な関係を築くこともできたりする。

 たぶん私は、高校を卒業した時点で、私なりに「高校時代」を「思い出」として昇華させてしまっていたのだろう。これが私なりの「時代」の終わらせ方だったのだと思う。
 私の心の中に残っているのは、高校「時代」であって、高校「自体」ではないのだ。

 反対署名や反対集会に参加した人たちの中には、高校「時代」と高校「自体」をいっしょにしていた人もいたんじゃないかな、と思う。
 もしかしたら、反対運動という行為で、彼らは時代と自体を分離させて、思い出として昇華させているのかもしれない。

 はがきが届いた数ヶ月後、T高校の廃校計画は決定事項となった。

 私が卒業した年の卒業文集は、各人がそれぞれスペースを与えられて、思い思いのメッセージやイラストを書くというスタイルで作成されていた。
 できあがった文集に一番多く書かれていたのが、さだまさし氏の「主人公」という歌の歌詞だった。

 確かに自分で選んだ以上 精一杯生きる
 そうでなきゃ あなたにとてもとても はずかしいから
 あなたは教えてくれた 小さな物語でも
 自分の人生の中では 誰もがみな主人公
 (さだまさし氏 作詞 「主人公」より)

 近い将来、私の母校は消えることになる。でも、たとえ校舎が跡形もなくなって、住宅地に変身したとしても、不器用ながらも一生懸命生きた時代は、決して私の心からは消えない。
 私は高校時代という時代の中で、確かに主人公として生きていたのだから。