「ひーエッセイ」 バックナンバー

 

 

   

<ひーエッセイ 第33巻 ★★雪の結晶★★>
発行日:'02/02/26(Tue)


 第31巻「困ったときの仏さん頼み」に書いた月参りツアーが、電車とバスを乗り継いで行われていた頃のことである。

 最初の参拝場所である、大阪府寝屋川市にある成田山不動尊の最寄り駅は、京阪電車(大阪と京都を結ぶ私鉄。住宅街を縫うように走るために、駅によっては電車が傾斜状態で停車する。実際見ると、怖いぞ〜)の香里園(こうりえん)駅である。
 行く時は上り坂が多いので、駅からバスに乗っていた。でも帰りは、駅までよく歩いた。

 駅に向かう途中に、おせんべい屋さんがあった。夏になると、そこでアイスが売られていた。
 「脱水症状になったらあかんから」という母のあたたかい「配慮」で、そこでアイスを買うのが定番行事だった。
 「あんまり甘いのを食べたら、あとでのどが渇くから、あっさりしたのにしとき」という、母の「アドバイス」のおかげで、私が手にすることのできるアイスは、「しらゆき」という名前の、シロップがかかっただけのかき氷か、アイスキャンディーだった。

 今とは違い、立ち食いや歩き食いなどはもってのほかだったが、その時だけは、歩きながら食べても叱られなかった。大人も子供も、日陰の場所を選びながら、アイスを片手にのんびり駅まで歩いていた。
 私は食べるのがとにかく遅い子供だったので、「しらゆき」を水にしたり、アイスキャンディーをどんどん溶かして、時には道に落としたりしていた。
 夏の間は、アイスを買ってもらえるから歩いていたと言っても、過言ではない。

 「しらゆき」の容器のふたや、アイスキャンディーの袋には、雪の結晶のマークが描かれていた。

 母が倒れるまで、我が家では宅配牛乳を取っていた。毎朝、牛乳2本とフルーツ牛乳1本が届く。この牛乳で、母は「ヨーグルトきのこ」を作っていたのだ(第23巻「ミミズの思い出」を参照下さい)。

 我が家の庭には昔、母の趣味でもあった植木類が、山のように植わっていた。この植木のせいで、家の中は昼間でも明かりが必要だった。
 猫の額ほどの庭は、ミミズやナメクジやヤモリやイモリや蟻たちのパラダイス状態。時には青蛙が「けろけろけろ」と鳴いていたときもあった。
 そんな状態なので夏になると、配達されたフルーツ牛乳には、蟻がうようよとたかる。払い落とすのが面倒なので、1分でも早く取り入れなければならなかった。

 配達のお兄ちゃんは、たまにサービスで、コーヒー牛乳を入れてくれた。私はこのコーヒー牛乳が大好きだった。今でもコーヒーに砂糖とミルクが欠かせないのは、このときの影響かもしれない。
 コーヒー牛乳を毎日サービスしてくれないかと、よく思っていた。

 この宅配牛乳瓶にも、雪の結晶のマークが描かれていた。

 学生時代の4年間、スーパーでアルバイトをしていた。担当は食品レジ。その頃のスーパーには、まだPOSレジなどというものはなかった。商品金額は全て手入力である。
 年中無休営業の店なんて、まだまだ少なかった。お正月も、最低3が日はきちんとお休みしていた時代だった。

 そんなこともあり、特に日曜日の特売日や年末などは、スーパーの中は戦場だった。各レジに、かごを2つも3つも持ったお客さんが10人以上並ぶなんてことも、ざらだった。

 今では考えられないが、そんな日は、1番目のお客さんの入力が終わると、レシートを切ってしまう。そのお客さんがお金をごそごそ出している(特におばあちゃんは、時間がかかるんだ)間に、2番目のお客さんの入力を始める。
 1番目のお客さんがお金を出すと、切ったレシートを見ながら、お釣りを暗算で計算して渡し、2番目のお客さんの入力を続けるということを、繰り返していた。
 それを開店から閉店まで同じレジで行い、レジを締めた時に金額差違を出さないというのが、私の自慢だった。「お札パッチン」だって、今でも完璧にできる。

 商品に値札がついていなければ、当然値段を確認しに、売場まで走らなければならない。その商品がどの棚にあるのかわからず、右往左往したこともあった。
 だから、よく売れる商品の定番(通常販売価格のことを、私のバイト先ではこう言っていた)は記憶しておかなければ、後で自分が困るはめに陥る。
 レジに入る前に店内を回り、その日の特売商品の価格もきちんとチェックして覚えておかなければ、お客さんに叱られてしまう。

 紙パック牛乳は、特売の目玉になることが多い商品の一つだ。でも1種類だけ、滅多に安売りされない牛乳があった。
 その牛乳の定番は、当時225円(だったと思う)。他のメーカーの牛乳と比べても、定番も高かった。それでも売れていた。

 その紙パックの牛乳にも、雪の結晶のマークが描かれていた。

 大体において我が家で使われる商品は、メーカーが凝り固まる傾向があった。それもこれも、母がなじみの店からしか物を買わなかったせいだ。
 電気製品はM下電器社製で全て統一されていたし、食パンはYザキ社製の5枚切り、インスタントコーヒーは「Nカフェゴールドブレンド」と、決められていた。
 果物も野菜も魚も、母が買う店は決まっていた。

 乳製品も例外ではなく、牛乳をはじめ、バターやマーガリンの箱には、すべて雪の結晶のマークが描かれていた。こんな家庭環境に育った私は、こと乳製品に関しては、雪の結晶マーク入り商品を、母が亡くなった後も買い続けていた。
 コンビニで出会って大好きになったコーヒーゼリーやプリンも、しかりである。

 どれを食べても、おいしかった。あまり特売はしなかったけれど、それが雪の結晶のブランド力だと思っていた。信じ切っていた。
 何よりも私は、雪の結晶の中にノスタルジーを感じていたのだと思う。

 そのノスタルジーにひびが入るような出来事が、2年前の食中毒事件だった。関西地域ではずいぶん長い間、雪の結晶は店頭から撤去されていた。
 牛乳だけではなく、バターもマーガリンもチーズも、コーヒーゼリーもプリンも、とにかく乳製品全てである。

 被害に遭われた方には申し訳ないが、私は雪の結晶が売場できらめいているのを見られないのを、とても残念に思っていた。久々にコンビニで再会した時は、とてもうれしかった。

 あの食中毒事件は、犯罪と言うよりも究極の不注意だった。その不注意がわかっていて見逃したのは犯罪だが、緩んで落ちそうになっていたふんどしを締め直すようにという、戒めとして起こった事件だったのだと思う。
 逆に言えば、それまでよりももっと雪の結晶のきらめきを増すことができる、チャンスでもあったと思う。

 だけど今回の偽装工作は、食中毒より何倍もたちが悪い事件だ。

 営業マンにとって売上が伸びないというのは、死活問題だ。成績がじり貧のままなら、人も事務所もどんどん削られていく。出世も望めない。出世どころか、よその会社のリストラが、明日の我が身かもしれないのだ。

 売上が喉から手が出るほどほしい営業マンなら、誰もが一瞬は考えてしまうことだろう。だけどほとんどの人が、思いとどまる。
 なぜならそれは、犯罪だから。多くの人たちの信頼を、根底から覆すようなことだから。
 そして何よりも、自分自身のプライドを放棄することだから。

 だけど目先のことしか見えなくなってしまった一部の人たちが、プライドを放棄して起こした事件の結果、雪の結晶の1部が大きく欠けることになってしまった。彼らに会ったこともない人たちが、職場をなくしてしまうことにもなった。
 彼らには、雪の結晶のきらめきが、あまりにもまぶしすぎたのだろうか。

 マスコミにばれなければ、今後も同じようなことが続けられ、もしかしたら死者がでるような事態になっていたかもしれない。明るみになってよかったのだとは思う。
 ただ自らが熱湯をかけるような自虐的行為で、雪の結晶が溶けていくのを見るのは、とても寂しい。今の私を培ってくれた一部が否定されてしまい、何だか私までが否定されたようだ。

 牛乳を配達してくれていたお兄ちゃんは、今頃どうしているのだろうか。
 工場で今日も牛乳やバターやマーガリンやチーズ、コーヒーゼリーやプリンを作ってくれている人たちは、今どんな思いで働いているのだろうか。
 せんべい屋のおばちゃんは、今もアイスを売っているのだろうか。

 緩み欠けたふんどしもひっぺがされて、丸裸にされた「雪の結晶」。風邪を引いて、熱を出して、その熱で溶けてなくなってしまう運命なのかもしれない。

 代わりの商品は、他にいくらでもある。どれもそれぞれ、おいしいと思う。だけど、あの結晶のきらめきは、永遠であってほしかった。
 私自身の勝手なノスタルジーだと、笑われてもいい。私は今、何だかとても、つらいのだ。

 つらいけれど、私はこれからも「雪の結晶」の行方を、追いかけ続けるだろう。
 「雪の結晶」は、今の私に、ずっと結びついているのだから。