「ひーエッセイ」 バックナンバー

 

 

   

<ひーエッセイ 第31巻 ★★困ったときの仏さん頼み★★>
発行日:'02/02/12(Tue)


 1〜2ヶ月に1度の割合で、私は墓参りに行く。
 我が家の墓は、原チャリでラッタッターと走って数十分、山を切り開いて造られた、市営の公園墓地の一角にある。

 墓地公園の入口には、花屋さんがある。
 この店のおばちゃんと母は顔なじみだった。

 母は顔なじみになった人には、私のことを何でもしゃべりまくっていた。
 母は生前、ある総合病院の脳外科病棟に勤務していたのだが、その病棟で働いていた人の間では、私は超有名人だった。私が行くと、名乗りもしないのに、全員が正確に私の名前を呼んでくださるのである。

 母はこの花屋のおばちゃんにも、私や父のことをしゃべったり愚痴ったりしていた。そんなわけで、おばちゃんは私のことをよく覚えておられる。
 私が花を買いに行くと、「元気?」「今日もバイクで来たん?」「お父さんは元気?」「まだ結婚せえへんの?」と矢継ぎ早に質問してくる。時には「お母さん死んで、何年になるかなあ」としみじみつぶやく。
 おばちゃんとひとしゃべりした後、店の前にある自動販売機で缶茶を1本買って、墓へ向かう。

 我が家の墓は、比較的山の上の方にある。
 夏は直射日光がまともに当たるので、ものすごく暑い。冬は北風がとても冷たくて、ものすごく寒い。春は道沿いの桜やツツジが咲き乱れて、とてもきれいだ。でも秋になると、落ち葉がどさどさと落ちてくるので、掃除が大変である。
 頭上では、お供え物や残飯をねらっているカラスが、仲間同士でしゃべりながら旋回している。

 墓を掃除してお参りした後、墓前にお供えした缶茶の残りを飲みながらぼーっとするのが、いつものパターンである。
 短いろうそくが燃えて小さくなるくらいの時間だけれど、この瞬間が私は好きだ。
 今のように思い悩んでいる時には、「どないしたらええんかなあ」と、墓に向かってつぶやいたりもする。

 考えてみれば、悩み事があったり、落ち込んだりしたときは、ぼーっと仏壇の前に座り込むことが多い。そして「墓に行こうかな」と思い立つ時が多いような気がする。
 「困ったときの、仏さん頼み」みたいな所は、母の性格を引き継いだのかもしれない。

 その昔、我が家では月に1度、寺社めぐりツアーを開催していた時代があった。参加メンバーは、私の両親、母方の祖母、私である。途中から、すまのおばちゃん(第14巻「時の流れ」に登場)も加わった。

 最初に向かうのは、大阪府寝屋川市にある成田山不動尊(千葉県にある成田山の別院)である。

 ここには、たくさんの鳩がいた。鳩のえさも売ってはいたが、私は家からお米を持っていって、鳩に食べさせるのが楽しみだった。
 私が鞄の中から米を取り出すだけで、妙に人慣れしている鳩の大群が、私めがけて押し寄せてくる。私の手から直接米をつつく鳩もいた。数匹に手のひらをつんつんされると、少し痛い。でも懲りずに、毎月やっていた。

 時には、暴力的な鳩もいたが、鳩がどんなに悪さをしても、追いかけたりしてはならなかった。そんなことをしようものなら、母の怒り声が飛んでくる。
「何やってんの! 鳩さん(関西人は名詞によく「さん」を付ける。豆のことを「お豆さん」、おかゆのことを「おかゆさん」と言ったりする)は、ここを守ってくれたはんねんで!」

 中学1年の元旦、私は交通事故に遭った。その時は車で成田山に向かっていたのだが、渋滞していて車が動かないので、私とすまのおばちゃんとで先に徒歩で成田山に向かっている途中の出来事だった。
 交通事故の知らせを成田山に着いてから知らされた父は、その場にへたりこんだそうである。いかにも、小心者の父らしい出来事である。

 次に、京都の伏見稲荷神社に向かう。

 母の実家は昔、このお稲荷さん(と、地元の人は呼ぶ。ちなみに、いなり寿司のことも、おいなりさんと呼ぶ)の近所にあった。
 お稲荷さんの参道にはたくさんの店が立ち並んでいるのだが、第14巻「時の流れ」に登場した絶倫おじさんも、ここで店を出していた時代があった。
 母たちにとっては故郷同然の場所なので、「この店の息子と同級生だった」とか「いやあ、この店、昔隣のクラスの子の店やったのに、つぶれてしもうてるわ」などという超ローカルな話題が飛び出す。

 お稲荷さんの境内は、非常に広い。本殿から奥に進むと、時代劇でもおなじみの鳥居のトンネルがあり、そこをくぐり抜けると奥の院がある。更にそこからどんどん奥に進むと、お塚と呼ばれる石碑がたくさん立っている。

 境内にある大小様々の鳥居には、会社名や個人名が刻まれている。神様にお願いをして、それがかなった人が感謝の意味で奉納するんだと、母は私に教えてくれた。そして最後に、母はこう付け加える。
 「大きい鳥居を奉納する人ほど、金持ちやねんで」。

 お稲荷さんに限らず、寺社には本殿以外にも小さな社がたくさんお祭りしてある。我が家では、その小さな社にもくまなくお賽銭を入れ、手を合わしていた。
 このお賽銭のために、母は5円玉や1円玉をたくさんストックしていた。銀行で両替してもらった、硬貨50枚が1本になった棒金が、常に10本くらいはあったと思う。

 参拝を終えると、参道から少し脇に入ったところにある、おいしいうどん屋さんに入って昼食をとる。この店で私は、「木の葉丼」に初めて出会い、「たぬき」が京都と大阪では違うということも知った。

 最後に、嵐山の手前にある、車折(くるまざき)神社という所に向かう。

 ここは芸能神社があることで有名な所だ。境内には、様々な芸能人の名前が書かれた赤い板が掛けられている。歌手や俳優はもとより、京都らしく芸子さんの名前もたくさんあった。
 有名人の名前を見つけると、何だかとてもうれしかった記憶がある。「あ、この人もここに来たんか」などと思ったりしていた。

 これが初詣になると、成田山と伏見稲荷の間に石清水(いわしみず)八幡宮、伏見稲荷と車折神社の間に城南宮が加わる。
 この恒例行事の他にも、鞍馬山ツアー、清荒神(きよしこうじん)ツアー、石切神社ツアーなどが年に1〜2度催されていた。
 母は暇さえあれば、「どっかにお参りに行こう」と私を誘っていた。

 祖母も母もすまのおばちゃんも亡くなったので、このツアーが中止となって久しい。

 祖母が寺社参りが好きだったということがきっかけだとは思うのが、このツアーの本当のきっかけや、参拝する寺社の選択の根拠などは、私にはわからない。
 物心が付いた頃から、私はあちこちの寺社にいる、鳩や亀や鯉にえさをやっていた。こういうツアーを開催している家庭が珍しいということも、知らなかった。「初詣の時だけお参りに来るなんて、他の人たちは何てずうずうしいんだろう」とも思っていた。

 幼い私にとっては、鳩にえさをやれるとか、おいしいうどんや丼が食べられるとか、アイスを歩きながら食べても怒られないという、一種のレジャー感覚で参加していたのだと思う。
 だけど母にとっては、苦しい現状を何とか打破したいという、切実な思いを込めたツアーだったのだ。どうしたら夫が真面目になってくれるか、娘が元気に育ってくれるか、母は神仏の声が聞きたかったのだと思う。

 お墓の前でぼーっとする時間が、とても大事に思えるようになった今、当時の母の悲しい気持ちが、やっと理解できた気がする。
 きっと母は、どこのお寺や神社でもよかったのだ。家内安全、身体健康を約束してくれる所であれば、どこでも。

 墓に来ることで、悩み事が解決するわけではないし、母の声が聞こえるわけでもない。でも夢の中でもいいから、これからどうしていけばいいのかを少しでも聞きたいと、今は切実に思ったりしている。
 あの頃の、母のように。

 昨日も、墓に出かけた。2月11日は、母の誕生日である。生きていれば68歳である。

 墓地に着くと、雪が降り出した。いつものように掃除とお参りを済ませた後、雪の中で缶茶を飲みながら、いつまでたっても答えの出ない父とのことに、私は思いを馳せていた。