「ひーエッセイ」 バックナンバー

 

 

   

<ひーエッセイ 第24巻 ★★告白★★>
発行日:'01/12/18(Tue)


 小学校3年生くらいの時、私は2人のクラスメートから陰湿ないじめを受けていた。
 休み時間に人気の少ない場所に連れて行かれた私は、2人がかりで体中をつねられていたのだ。

 いじめのきっかけは何だったのか、どうして私がいじめの対象にされたのか、そして彼女たちからどういう言葉を浴びせられながらつねられていたのかも、30年近く経った今となっては、私の記憶には残っていない。
 彼女たちの気に障るようなことをしたのかもしれない。それとも、いつも下ばかり向いていて、友達もいないような私の存在が、鬱陶しかったのかもしれない。

 全ての記憶があいまいになってしまっているけれど、あの痛さだけは私の心が覚えている。子供の力とはいえ、2人から思いっきりつねられていたので、ものすごく痛かった。

 今とは違い、学校の中には生徒や先生があふれかえっていた時代である。現場近くを知らない先生や生徒が通ることも、何度もあった。助けを呼ぼうと思えばできたはずなのに、声が出せなかった。
 それどころか、担任の先生にも言えなかった。クラス中のみんながその先生のことを好きだったけれど、私はなぜか苦手だったのだ。

 いじめられていることを、私は親にも黙っていた。もし告白すれば、親から矢継ぎ早に質問されることはわかっていた。だけど、自分の思ったことや感じたことを言葉にのせて話すことが、私は当時できない子供だった。学校であった出来事なども、めったに話さなかった。
 体中にできたあざを親に見つからないようにお風呂に入るのは、至難の業だった。

 しばらくして私の体のあざを発見した母は絶句し、それから烈火のごとく怒り始めた。「いったい誰がこんなことをやったんや!」と私を問い詰めた。
 だけど私は最後まで、2人の名前を告白することができなかったのだ。

 なぜ私が口を閉ざすのか、痛みを自分に訴えないのか。親としたら、私はまだ子供なのに、どうして自分の感情を思うままに吐露しないのか不思議だっただろうし、つらかっただろうとも思う。

 私の両親は共稼ぎをしていたので、参観日や懇談会に出席するのは、私の祖母の役目だった。
 誰がやったかを告白しない私に業を煮やして、祖母は懇談会の席で私が受けていたいじめのことを訴えてくれた。それ以降、私へのいじめはぴたりとやんだ。

 あの時受けたいじめの痛みは薄らいだけれど、いじめられていることを親に告白できなかった心の痛みは、未だに薄らぐことはない。

 告白するということは、とても勇気がいることだ。タイミングも計らなければならない。そして何より、告白することで新たにわき起こる、相手の自分への気持ちの変化を、自分自身が受け止めなければならない。

 子供なりに、私は既にそれを理解していたのかもしれない。だけどあの頃の私は、自信のなさの固まりのような少女だった。告白することで相手が自分をどう思うか、結果として自分に何が返ってくるかは、告白する前には当然見えない。自分に自信がないので、怖い。だから、何も言えなかったのではないだろうか。

 私は母へのガン告知もできなかった。いや、しなかった。
 母は病院で看護助手として働いていた。母は自分の胸にしこりらしきものがあるということは気付いていたし、私にも話していた。
 「病院に行ったら?」と言う私に母は「毎日行ってるがな」と答えるだけで、検査を受けようとはしなかった。

 自分がもしかしたらガンなのではないかと、母は考えていたと思う。
 だけど検査を受けてガンだと言われたら、仕事ができなくなる。そして、父のことをはじめ全ての負担が、私にのしかかる。
 母は何よりも、それを極端に恐れていた。

 そうこうしているうちに母は倒れた。勤務先の病院で脳に腫瘍があることが発見され、摘出手術が行われた。その腫瘍は、乳ガンからの転移で発生した悪性腫瘍だった。
 母が勤務していた脳外科病棟の詰所で、先生はこうおっしゃった。
 「脳に腫瘍ができたということは、もう全身に回っているということだよ」。

 それ以上のことはおっしゃらなかったが、母の死が近いという宣告と同じだった。ガン細胞は既に全身に回り、どこが悪くなってもおかしくない状態だったのだ。
 私はその宣告を、たったひとりで聞き、たったひとりで受け止めた。
 そして母へガン告知をしないことを、たったひとりで決めた。

 母はとても繊細で神経質な人だった。そして働くことがとにかく好きだった。
 「いつまでこんな生活をしなければならないのか。早く働きたい。あとどれくらいで働けるのか」と、そればかりをつぶやいていた。

 告知することで事実を受け止め、乗り越えられる人とそうでない人がいる。母は明らかに後者の方だった。
 自分がガンなのではないかということを、母は一切私に聞こうとしなかった。
 頭の腫瘍も取ったし、乳房も切った。退院できるのだ。自分の病気は治るのだ。
 そう信じようとしている母を見ていると、私にはガン告知なんてとてもできなかったのだ。

 ガン告知をしなかったからこそ、母は1年頑張ったのだと思う。
 「生きるんだ」という根性が長続きしたんだと思う。

 母のことにかかりっきりになっていたある日、父が入院している病院から連絡が入った。
 定期的に通っていた母が突然来なくなり、入院したということを知った父が、急激に元気がなくなり、このままの状態が続くと長くはもたないということだった。

 「あんたは、(父のことは)何もせんでええんや」という母の言葉に従い、私は何年も父の顔を見ていなかった。
 久々に見た父はすっかり面変わりしていた。私の顔は覚えていたらしく、父は泣き顔で責めるように激しく私をたたいた。せつない痛みだった。
 それ以降、月に1〜2度父の病院にも通うことになった。だんだん父は落ち着きを取り戻し、危機を脱した。

 父は父なりに、母のことを愛していたんだということを、私はこのとき初めて知った。

 そして今。私は父に、母が死んだということを、まだ告白できずにいる。

 母が死んだ後、当時父が入院していた病院の院長に、母のことをどう説明しようかと相談した。その結果、しばらくは黙っておいた方がいいんじゃないかという結論に達したのだ。
 横でそのやりとりを聞いていた看護婦さんが、「言った方がいいんじゃないの」とつぶやいていた。でも、母が入院したということを知っただけで、父は死にかかったのである。

 私はその時、看護婦さんにこう言いたかった。「安易に告白して、父がもしもの状態になった時、あなたが父を受け止めてくれるんですか」
って。
 本当のことを告白することが、何もいいこととは限らないと、私は信じた。いや、信じようとしていたように思う。

 週に一度、父に会いに行くと、父は「お母ちゃん(母のこと)は元気か?」と聞く。私は「相変わらずやで」と答える。父はその後決まってこう言う。
 「あいつの方が元気やから、長生きしよるわ。わしの方が先に逝く(死ぬ)わ」。
 このやりとりを始めて、もうすぐ7年が経過しようとしている。

 事実を告白するのが、いいことなのか、悪いことなのか。告白しないことが父にとって、幸せなのか、不幸せなのか。
 自問自答を繰り返しながら、時はどんどん流れていっている。

 父もだんだん年を取り、日によっても違うのだが、記憶力が鈍ってきている。昔のことは異常なくらい覚えているが、現在のことが覚えられない。
 入院生活も15年以上過ぎ、父の中では、既に時の流れが止まろうとしている。どんなに父に「今」を教えても、理解はしていない。

 そんな父に今、母が死んだと告白したら、どういうことになるのだろうか。
 同じ病院に長期間いられるなら、病院側と協力しあって、父の悲しみやいらだちを受け止めることもできるけれど、3〜6ヶ月で「転院勧告」される現状では、受け止めるのは私だけだ。

 幼い頃は、告白しなければならないことから逃げて、告白できなかった。今は、事実を告白した方がいいのかどうかがわからず、告白できていない。
 告白というのは、人へうち明けるということだけではなく、自分自身と正面から向き合うことなのだ。

 あと何度向き合えば、私は答えが出せるのだろうか。