「ひーエッセイ」 バックナンバー

 

 

   

<ひーエッセイ 第18巻 ★★けじめなさい★★>
発行日:'01/11/06(Tue)


 私はそんなに携帯を使う方ではないが、それでも日に2〜3通のメールを必ず受信する。
 そのうちの90%以上が「出会い系サイト」からのものだ。

 特にドコモが「100パケットまでの受信は無料」という制度を導入してからは、さらに多くなった。皮肉なものだ。
 そのようなメールの中には、「興味のない方への配信をお詫びします」みたいな断りが入っているときがある。
 「そんなら、こんなしょうもないもん、送ってくんなよ!」と、いつもつぶやいてしまう。

 先日、友人と会ってしゃべっていたら、いつものようにメール着信音が鳴り響いた。その時のメールも、出会い系サイトからのものだった。

 届いたメールを読みながら、私はふとつぶやいた。
「こんなメールが流行るなんて、今の人って寂しい人が多いんやなあ」
 だけどその友人は、即座に反論をぶつけてきた。
「そんなきれい事と、ちゃうちゃう。しょせんは金儲けやがな」

「へっ? 金儲け? それだけちゃうやろ?」と言った私に対して、友人は、持論を展開し始めた。

「携帯電話って、最初はビジネスマンしか持ってへんかったやろ。あくまで、ビジネスで必要なツールとしてや。そやけど、値段をどんどん下げて、猫も杓子も持つようになった。持つ人が増えるということは、性能もどんどん上がるっていうことやろ」
「うん、そうやなあ」

「とうとう電話でメールとかもできるようになって、『これを利用して商売したろ』って考える人も当然出てくるわな。ダイヤルQ2の時かって同じやったやん。こういう目的で作ったのではないにしても、いずれこうなることはわかってたはずやで、ドコモも。私に言わしたら、確信犯や。そやから出会い系サイトの運営者も、『うちだけやなくて、ドコモも悪い』って言うんやで」

 私はその意見に、感心するばかりだった。そしてその友人は、さらにこうつぶやいた。

「そやけど、開設手続きの時に審査して登録制にするとか、なんか方法はないんかなあ。何でもありやもんなあ、そのメールの内容。信じられへんわ。こんなんが堂々とまかり通るのは、日本だけやで」

 確かに、この出会い系サイトから届くメールには、えげつない言葉が並んでいる。いくらお金儲けにつながるとはいえ、こういう文章ばかり考えていてむなしくならないのかと、私は余計な心配をしてしまう。

 何よりも問題なのは、今や携帯を持っているのは大人だけではないということだ。最近では、小中学生でさえ持っている。
 その子たちにもこの情けない内容のメールは、等しく届いているのだ。

 「出会い系サイト」から届くようなメールを、本当にランダムに送ってもいいのかということは、よく考えれば誰でもわかることだ。

 情報というものは、本当に必要としている人に送ることが鉄則だと思う。特に「出会い系サイト」勧誘メールは、相手を区別して送るという作業が必要だ。
 そういう努力も何もしない人は商売人ではない。単なる守銭奴だ。

 情けないのは、メールだけではない。
 児童書や絵本が置いてあるフロアに、ヘアもろ出し写真集が置いてある本屋がある。
 「となりのトトロ」のビデオから数歩のところに、アダルトビデオが陳列してあるビデオレンタル店だってある。
 マンションなどのポストには、ピンクチラシが何枚も入れられる。一部の公衆電話ボックスには、この手のチラシが一面に貼ってある。

 「これらのものを撤廃してしまえ!」とまでは言わない。
 でもこれらを、大人も子供も等しく見られる今の状態が問題なのだ。

 こういう社会は、「自由な社会」じゃない。

 子供の世界と大人の世界は違うものだし、区別をしないといけないと思う。
 子供の世界の問題は、基本的には子供同士で解決するべきだし、大人の世界の問題に必要以上に子供を巻き込むのは、なるべく避けるべきだ。

 以前は、そういう区別がもっとはっきりしていた。子供が入ってはいけない、大人の領域みたいなものが確かに存在した。

 子供もそういう領域があると、敏感に察知していた。だからこそ、子供は、自分の知らないことを知っている大人を頼りにしていたし、尊敬もしていた。

 その子供が大人になって、子供時代を振り返ったとき、「あのおっちゃん、今考えたらあの頃、しょうもないこと言うとったんやな」と感じても、それはそれで納得ができるのだ。

 子供が大人になるというのは、そういうことなのだと思う。

 テレビ番組だって、子供向け・家族向け・大人向けという風にはっきりと区別され、それぞれの放送時間帯もだいたい決まっていた。
 今は夜8時や9時にでも始まる大人向けのドラマも、私の子供の頃は10時以降くらいにしか始まらなかったような気がする。

 だけど今は、時代の変化と共に生活スタイルが変わってしまい、大人と子供の共有領域が増えすぎてしまった。
 子供から大人への過渡期があいまいになってしまい、大人のような子供や、子供のような大人が増えた。子供が大人を馬鹿にして、大人は子供に迎合している。

 その結果、「区別する」ということができなくなった人が増えたのではないだろうか。それも着実に。

 去年から流行っている「ミュール」だってそうだ。

 通勤時にこれを履いている女性がたくさんいた。社内履きとして利用し、客前にもミュール履きのままで現れる人もいたそうだ。
 だけど、ミュールというのは、いくら可愛くても「つっかけ」である。仕事(通勤だって仕事のうちだ)という「公」の場面で、「つっかけ」を履くと言うこと自体、私はおかしいと思う。

 それも姿勢良く颯爽と歩いているならまだしも、ほとんどの女性が、ヒールを引きずり、けたたましい音をたてて歩いている。
 みっともないこと、この上ない。

 私の親だったら、きっとこう言うだろう。
「あんた、そんなもん履いて、会社に何しに行くんや。会社は、遊びに行く所とちゃうで。きちんと働いて給料貰いに行く所や。ちゃんと靴履いて、きちんとした身なりで行き。それが、けじめというもんや」

 だけど、けじめをつけることができない人たちは、「自由」という言葉ですべてを片づけてしまう。
 そしてついには、「恥ずかしい」という感情さえ、欠落してしまう。

 女性が人前で化粧するという行為は、もともと「恥ずかしい行為」の典型だったはずだ。
 なぜなら、女性が化粧姿を見せるというのは、その女性の舞台裏を見せているのと同じ事だからだ。

 でも、「人前での化粧が恥ずかしくない」と思う人たちは、舞台の表裏の区別をつけられない、つまり、けじめをつけられない人たちなのだろう。
 こういう人たちの口から、「恥ずかしい」という言葉を聞く機会は、まずない。

 一つの言葉を耳にしなくなった、使わなくなったということは、その言葉が持っている意味を知らなくてもよくなった、その言葉を使うべき対象がなくなったってことだ。

 だけど、「恥ずかしい」という言葉が使われなくなるということは、今までの日本人が大切に培ってきたプライドさえ、放棄するということだ。
 「時代の流れだから仕方がない」という一言で、片づけられる問題ではないのだ。

 ある雑誌で「その国の国民性以上のレベルを持った文化や芸術は、その国には絶対に生まれない」という意見を読んだことがある。
 その意見がもし正しいならば、今の日本のレベルを知る一番手っ取り早い方法は、けじめの「け」の字もない、出会い系サイトからのメールを読むことなのだ。

 「けじめ」を忘れた日本の価値、そして日本に住む私たちの価値は、日々確実に落ちている。
 そしてそれを恥ずかしいと思わない人は、日々確実に増えている。