「ひーエッセイ」 バックナンバー

 

 

   

<ひーエッセイ 第16巻 ★★物を捨てる悲しみ★★>
発行日:'01/10/22(Mon)


 母が亡くなって4年後、私は「我が家の建て替えプロジェクト」をスタートさせた。

 築後30年以上経過し、家の老朽化が進んでいたことも理由の一つだが、建て替えを決意した最大の理由は、母が亡くなった後に私に残された、膨大な荷物の整理がつかなかったからだ。

 形見分けをしてほしいという親戚もいた。でも、どこに何があるのかさっぱりわからないので、それすらできなかったのだ。どこから手をつけてよいのかわからず、生来ずぼらな私は整理が億劫になり、あちこちに荷物が散乱する中で生活していたのだ。

 建て替え前の諸問題も片づけ、私は仮住まいに移るために、本腰を入れて荷物整理を始めた。
 そんな私に、ハウスメーカーの担当営業マンがこう言ってくれた。
「いらない物は、全部そのまま置いておいてください。解体の時に、全部処分しますからね」

「はーい、わかりました」と答えたものの、その時点では、まさか自分の家にあった物のほとんどを処分することになるとは、思いもしなかった。

 整理を始めてまず出てきたのが、長期保存が可能な食品類だった。砂糖、塩、しょうゆ、昆布などが先を争うように姿を現した。
 しょうゆに至っては、賞味期限が切れてから10年以上経過したものまであった。暑さで溶けかけている砂糖もあった。母が試していた健康食品の類も、山のように出てきた。

 家の中での大工仕事はほとんど一人でこなしていた母らしく、大工用具もごろごろと出てきた。釘の量ときたら、商売ができそうなくらいだった。でも、ほとんど錆びてたけど。

 それから食器、鍋、日用雑貨品。ほとんどいただいた物ばかりで、未開封のまま押入に押し込まれていた。年月がたちすぎて、色が変わってしまった食器が多数。錆びてしまった鍋もあった。やかんばかり4〜5個出てきた時は、笑ってしまった。

 何よりもすごかったのが、衣類である。
 2階の部屋の一室(六畳和室)には、タンス類が5〜6本、その隙間には衣装ケースが所狭しと置かれていた。そこには、私と母の衣類がぎゅうぎゅうに詰められていた。その中には、少なくとも10年以上は眠ったままであろう、サイズが合わなくなってもう着られない衣類も多数含まれていた。
 その「タンス部屋」には小さな床の間もあったのだが、そこも突っ張りポールを利用し、即席タンスに改造されていた。

 しかし、置かれていたタンスや衣装ケースのほとんどを、母が亡くなってから開けたこともなかったので、改めて眺めてみると、その量は壮絶だった。

 そして屋根裏収納庫には、どう見ても数十年前のものと思われる父や母の衣類や下着が、紙製保管用ボックスにきちんと詰め込まれていた。10箱以上はあったと思う。
 古すぎて、色が変わっている物もあった。雨漏りで、保管用ボックス自体が湿っているものもあった。未開封の下着もあった。それも、一生着ても着足りないくらいの量だった。
 毛布やタオルやバスマット、寝間着やパジャマやハンカチなども、雪崩のように崩れ落ちてきた。

 荷物が多いことを予想して、一人暮らしにもかかわらず、部屋数が多い仮住まいを私は準備していた。
 でも、とてもじゃないが全ては運び出せない。あまりのことに、呆然となった。

 私以上に呆然となっていたのが、手伝いに来てくれていた友人である。普段割と沈着冷静な人なのだが、あまりの量のすごさに、口をぽかんと開け、しばらくの間、何も言わずに立ちつくしていた。

 しばらくして我に返ったこの友人は、ぽつりとつぶやいた。
「もったいないなあ・・・。物なんて、使わへんかったら、置いといても意味ないのに・・・」と。

 建て替えプロジェクトのスケジュールが全て決まり、家の解体日が迫っていた。リサイクルやバザーに出すような時間は、もうなかった。しかし出したところで、売れはしなかっただろうが。
 結局、ほとんどすべての物を処分しなければならないという結論に達したとき、私はその友人の前で泣いてしまった。

 私はそれまで、残された物を置いておくことに、結構こだわっていた。新築する家の設計プランの段階でも、その考えが私の頭から抜けなかった。予算の関係でカットしたが、当初は屋根裏収納庫を造ろうと考えていたのだ。
 家を建て替えるうえで、私が一番心配していたのが、収納のことだったのだ。

 でも、屋根裏収納庫をいくつ造ったところで、到底入りきらないであろう量の荷物を見た時、「物を置いておく」というこだわりを捨てなければ前に進めないことに、私はやっと気が付いたのだ。

 たくさんの物を母は残していたが、ほとんどの物を、母は実際には使っていなかった。
 私のためにと置いておいてくれたのだろうが、当の私にとっては、ほとんどが不要品だった。出した結論が、解体時のゴミとして処分することだった。
 物を捨てることが、こんなに悲しみを伴うなんて思わなかった。友人のつぶやきが、心にしみた。

 私の両親の世代の方の共通点の一つが、「物を大事にする、物を捨てずに置いておく」ということだと思う。それも多くの場合、その時に必要であるかどうかではなく、「いつか、将来」のために。
 不要だと思って捨てた物が、母の手でいつの間にかゴミ箱から拾われていて、別の場所でそれを見つけてびっくりしたという経験が、私には何度もある。

 でも、「物を大事にする」ということと、「物を捨てずに置いておく」ということは、違うのだ。

 母は、私が新品を使いたがることを、極端に嫌った。
「あんたはまた、新しいのをおろす(使う)! もったいないなあ。新しいやつは、置いとき。『いつか』使うから」
 だけどその「いつか」は、永久に来ないことがほとんどだった。新品は忘れ去られ、使い物にならなくなっていく。そしてまた、物が増える。

 使うことがもったいないのではなく、使わないことがもったいないのだ。今は、そう思う。

 母は、こうやって増えていく物を保管するために、通販で安いタンスを買っていた。特売の日には、スーパーで紙製保管用ボックスも買っていた。屋根裏収納庫も造った。勝手口から出た所にも敷地ぎりぎりまで波板で囲み、物置にした。それでも足りずに、物干し用ベランダに屋根をつけてそこも物置にした。
 どこに何があるかは、母の頭の中だけにインプットされていた。

 母は、「物に暮らしていただく」ために、かなりの費用を費やしていた。人間よりも物が「暮らす」スペースの方が広かった。
 家の外にも物が置かれていたせいもあり、我が家の日当たりは悪く、部屋はいつも薄暗かった。

 だけど、家というのは人間が暮らすところ。物というのは人間の生活を助けてくれる脇役であって、主役ではないのだ。

 母がもっと物を取捨選択してくれていれば、こんな涙も流さなくてすんだのだ。本当の意味での「形見分け」も、スムーズにできたはずだ。
 正直言って、物を処分している過程で、母の大事にしていた物を残せたのか、私には自信がない。

 涙を流した日以降、私の物に対する執着は、徐々に抜けていった。自分の手元で生きる物だけを、回りに置くように心がけた。そうでない物は、あらゆる手段を使って手放した。
 私が不要であっても、他に必要な人がいるなら、その人に使ってもらった方が、物が生きると思ったからだ。

 いつか私がいなくなったとき、誰かが私の物を整理してくれるだろう。その時に、私が感じたような悲しみを、他の人には味わってほしくはない。
 それに生きている物は、きっと残してもらえる。私の記憶といっしょに。

 物を使わないでため込んでいることが、物を粗末にしていることと同じなのだ。物は人に使われるために生まれ、人に使われてこそ生きるのだから。
 ほんとに必要な物なんて、限られているはずだ。自分にとって必要な物を大切に使うことが、物を大事にすることなのだ。

 何でもかんでも置いておくと、きっと、大切なことが見えなくなる。