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<ひーエッセイ 第12巻 ★★思い出と現実の狭間で★★>
発行日:'01/09/18(Tue)


 私には、神戸の須磨(すま)に住んでいる叔母がいる。母の姉にあたる人だ。私は「すまのおばちゃん」と呼んでいる。
 小学生のころ、私が夏休みに出かけるところと言えば、このおばちゃんの家だった。彼女の家から歩いて15分くらいのところに、海水浴場がある。そこで毎年のように海水浴をしていた。

 叔母夫婦には子供がいなかった。だから、私が行くととても喜んでくれた。
 偏食が激しかった私の好物が、カレーライス。「何が食べたい?」と聞かれた私は必ず「カレこっこ」と答えていたそうだ。おばちゃんは、そのカレーの中にいろいろな野菜のくずを入れていたら
しい。
「こうしたら、普段食べへん物でも食べてくれたからな」と、よく言っていた。

 海水浴以外の楽しみといえば、ここで2つ年上の従姉に会えることだった。彼女がやってくるのを、私は首を長くしていつも待っていた。
 幼い頃なかなか友達ができなかった私にとって、いつも仲良く遊んでくれた彼女は、とても大切な存在だった。
 私にとっては、海水浴よりも大きな思い出である。

 すまのおばちゃんは、おとなしいけれど結構頑固なところがあった。マイペースを貫き、他人のアドバイスを素直に受け入れる方ではなかった。以前胃ガンになり、胃の摘出手術をしたことがあるので、本当はあまり食べ過ぎてはいけなかったらしい。
 でもおばちゃんは、特に食事制限などせず、食べたいものは食べ、出されたものはすべて平らげていた。かえって、回りの人間が気を遣っていたくらいだった。

 すまのおばちゃんには、「自分が年を取った」という自覚がなかった。だけど目も不自由だったので、歩いている様子を見ていると、危なくて仕方がなかった。目を離すと、つまづいたり溝に落ちたりして、生傷が絶えなかった。
 だけど、私たち親娘が出かけるところには、一緒に付いてきたがった。そんなわけで、よく3人で行動を共にしていた。

 15年ほど前にすまのおばちゃんのご主人が亡くなった。1人になったすまのおばちゃんを何かと気遣い、援助していたのが、私の母だった。費用等は、ほとんど母の持ち出しだった。
 すまのおばちゃんは、具体的に「これをしてほしい」というようなことは、言わない人だった。だけど、気遣いの女王である私の母の援助は、遠慮なく享受していた。それに対して感謝の気持ちを表すことは、特になかった。

 だけど私の母は、他人との適度な距離感を保てない人だった。いつも全力で、人の世話をする。その人が自分の思った通りにしてくれないと、当然いらいらする。だから、マイペースを貫くすまのおばちゃんとは、母はよくぶつかっていた。
 母は、私にもよくぼやいていた。「あの人は、回りが心配していることを何もわかってない」と。

 私の母が亡くなった後、すまのおばちゃんの面倒を見る役目を引き継いだのが、母のすぐ下の妹にあたる叔母である。先に書いた「2つ年上の従姉」のお母さんにあたる人だ。私は「カラト(神戸市内にある地名)のおばちゃん」と呼んでいる。

 カラトのおばちゃんも、神戸に住んでいる。ただ神戸市というのは結構広く、2人の家はかなり離れている。でも、カラトのおばちゃんは定期的にすまのおばちゃんの所を訪ね、何くれとなく世話をしていた。

 そのすまのおばちゃんが、現在入院中だ。膵臓(すいぞう)ガンである。既に肝臓にも転移し、余命幾ばくもないと医者は言っているそうだ。
 介護しているのは、やはりカラトのおばちゃんである。ほぼ毎日病院に通い、夕方数時間付き添い、汚れ物を持ち帰って洗濯し、次の日に病院に運ぶ。

 カラトのおばちゃんも現在は一人暮らしである。ご主人は既に亡くなり、子供も結婚して遠方に住んでいる。
 カラトのおばちゃんだって、体が丈夫な方ではない。「あっちが痛い、こっちがだるい」とよく言っている。そう言いながら、毎日病院に通い、献身的な介護を続けている。

「遠いから毎日は通えない。でも、何か私にできることはないの?」って尋ねた時、カラトのおばちゃんはこう答えて私の申し出を拒んだ。

「あんたにはあんたの生活がある。これからあんたのお父さんも、どうなっていくかわからへんねんやろ? だから、仕事は続けないかん。別に何もしてもらわんでもええ。でも、しょっちゅうでなくてもいい、月に1度くらい顔を見に来たって」

 私はそのおばちゃんの言葉を聞いて、すまのおばちゃんの介護をすることで、カラトのおばちゃんなりの「けじめ」みたいなものをつけようとしているんじゃないか、心の整理をしているんじゃないかと、ぼんやり思った。

 それなら、カラトのおばちゃんへの余計な口出しはやめて、私は後方部隊に回ろうと決めた。カラトのおばちゃんが考えるとおりにさせてあげようと思った。でも、ちょっと寂しい。

 後方部隊としての私が今できることは、時々病院に見舞いに行くこと、カラトのおばちゃんからの電話の相手をすること、おばちゃんからの質問にわかる範囲で答えてあげることくらいである。

 今朝も、おばちゃんから電話がかかってきた。
「(すまの)おばさんなあ、昨日、おしりから血が出たんやて」
「あー、下血(げけつ)したんやなあ」
「そんでな、今日、病院の先生から話があるんやて。あんまりええこと、ないんやろなあ」
「うん、そうやな。この間おしっこ見たとき血は出てへんかったな・・・何を言わはるかわからへんけど、もしかしたら輸血しはんのとちゃうかな」
「え、輸血? そやけど輸血したかって、今の状態やったらざるに入れるのといっしょと違うの?」
「うん、そうやけどなあ・・・。うち(ガンだった私の母のこと)も亡くなる前、輸血してたで。血液を作る機能が低下してきてたから」
「そうかあ・・・」

 ガン末期の70代半ばの姉を、60代半ばの妹が自分の体を引きずるようにしながら介護している。この2人の様子を目の当たりにすると、将来自分はいったいどうなるんだろうかという、漠然とした不安におそわれる。

 私には兄弟がいない。まだ結婚もしていない。母も亡くなった。
 今後の私には、父の介護が重くのしかかってくるだろう。そしてこの生活は、まだまだ長く続くだろう。

 父も60代半ばを過ぎ、これからは確実に年老いていく。障害者が年を取っていくというのは、いったいどのようなことなのだろう。
 私ひとりで乗り越えていけない問題が出てきたとき、いったい誰にサポートしてもらえばいいのだろう。
 そして、私自身もいつか年老いていく。私が60歳になるとき、父は90歳。その時に、私の体がどれだけ思うように動くのだろう。それよりも、私は生きているだろうか。

 私はおばちゃんたちから、これからの人生の中で、私が常に心に留めておかなければならない「リスク」みたいなものを、改めて教えてもらったような気がする。

 そして先ほど、カラトのおばちゃんから「やっぱり輸血の話しやったわ。あんたの話しは、よう当たるわ」という報告の電話があった。
 私は、「おばちゃん、こんなんが当たっても、うれしくも何ともないわ」と答えた。

 すまのおばちゃんとの永遠の別れが、少しずつ近づいてきている。そして、カラトのおばちゃんにとっての戦いも、最終章に向かいつつある。