「ひーエッセイ」 バックナンバー

 

 

   

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目からうろこがぼとりと落ちる
     ★★ひーエッセイ★★     2004/06/14 発行
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第106巻 「半京都人の思い」
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 JRには、京都駅から宇治方面を経由して奈良駅へ通じている「奈良線」という路線がある。全国的に有名な東福寺や伏見稲荷大社などもこの路線の沿線にあるのだが、この奈良線の電車に乗ると私が必ず思い出す言葉がある。

 京都駅を出発してしばらくすると、進行方向右手に会社の建物らしきものが見えてくる。その時に私の母方の親戚と一緒だと、十中八九間違いなく、毎回毎回、必ずこう聞かされるのである。

「あの会社な、昔は花札なんかをちまちま作っとった会社やで。それが今では、『ファミコン』とかいうのんで、えらい有名になってしもうて・・・」

 今は京都市内の別の場所に移転してしまったようだが、10数年前までそこには任天堂の本社があったらしいのである。とにかく毎度の話なので、しまいには「言うぞ、誰かが言うぞ」と身構えたものである。
 親戚達の言い方は、まるで人ごとのようである。決して「すごいやろ〜」と誇らしげに言うでもない。でもこれが、京都の人流の自慢の仕方なのだ。

 私の母方の親戚のほとんどは、京都で生まれ育った。もちろん母もそうである。「そうどす」などという言葉遣いはしないけれど、伏見稲荷大社を遊び場にして育ち、「大阪の豆腐なんて、水が臭うて、よう食べんわ」と嘆いていた。
 そんな親戚に囲まれていた私は、大阪で生まれ育ったけれど片足を京都に突っ込んでいる、半京都人なのかもしれない。

 第31巻「困ったときの仏さん頼み」でもちょこっと書いたけれど、我が家では月に1度、大阪・京都の神社仏閣を参拝して回るという習慣があった。決まった場所ではあったけれど、時にはマイカーで、そして時には京阪電車や京都市バスなどを乗り継ぎ、毎月京都に足を運んでいたのだ。家の中でも、食事や言葉、習慣といったものを通じて、「京都」が自然に鎮座していた。

 それに、関西人の手軽なデートスポットといえば、神戸か京都だ。私の学生時代には、「八坂神社や哲学の道にカップルで行くと、必ず別れる」などという言い伝えもあった。

 私にとって京都という場所は観光地ではなく、幼い頃からごく自然に身の回りに存在していた場所だった。

「生粋の京都人と結婚したら、しんどい思いをする。苦労もする」という話を初めて聞いたのは、いったいいつ頃だっただろう。
 京都だけがなぜ特別なのだろう。私には全くわからなかった。

 最近「よそさんは京都のことを勘違いしたはる」という本を読む機会があった。著者である山中恵美子さんは、代々続く商家生まれの生粋の京女。この本には、彼女が生まれ育った町家の日常や習慣、加えて京都流の独特な心配りやしきたりのことを、彼女の考えを交えて丁寧に書かれてある。

 その中に、「ええんとちがう」という言葉について解説しておられる章がある。標準語に直訳すると「いいと思いますよ」という同意の言葉である。

「この服、ちょっと派手とちゃうやろか(派手だと思いませんか)?」
「ええんとちがう」

 他府県の方がぱっと聞くと「どういいのかがわからない」と疑問に思われるだろう。だが京都では、「ええんとちがう」の答え方によって意味が様々に変化する。

「私が着て出かけるわけではないから、派手であろうがなかろうが、私には関係がない」という意味の時もあれば、「特に派手とは思わない。よく似合っている」という意味の時もあるのだが、京都の人はこういった使い分けを瞬時に行うことで会話を成立させる。大阪などでも似たような使い方をするのだが、京都はこの類の会話が非常に多い。
 山中さん曰く「相手に判断の余地を与えて、責任を転嫁する言い方」である。

 母も親戚も、そしてもちろん私も確かにこの「ええんとちがう」という言葉を駆使していた。家の中ではきちんと会話は成立していたし、不自由を感じたこともなかった。
 だけどこの一節を読んで、私は軽いショックを受けた。初めて思い当たったこともあった。

 京都の人以外の人に対して「ええんとちがう」を使った時、「それで結局、どういうこと?」と突っ込まれたこともあった。「ええかげんな答え方をせんといて」「もっとはっきり言って」と非難されたこともある。
 だけど私自身は、「ええんとちがう」で既に答えは完了している。「ちゃんと答えたのに、なんで怒られるんやろ?」と感じる。で、結局「なんぼ言うてもわからはらへん人やな」と思って、それ以上は口を出さない。
 結果、「何を考えているかわからん人」というレッテルを貼られてしまう。

 だけどこの本を読んで、やっと気付かされたのだ。
 この「ええんとちがう」には、自分のことを相手がわかってくれていて当然である、という気持ちが根底に流れているんだなということを。

 もってまわった曖昧な言い方をするのも、京都独特である。
 例を挙げると枚挙にいとまがないが、「したはる」も典型的な京都の言葉である。「〜しておられる」という敬語にあたり、京都以外でも使われているが、目上の人だけではなく身内にまで、しかも親が子供に対してだって使うのが京都流である。

 例えば「今、うちの息子は部屋でテレビを見たはりますわ」などという言い回しもよく使うが、これには「ほんまにテレビばっかり見て、困った子ですわ」という意味合いを含んでいたりするのである。
 京都とはまた違った意味のプライドを持つ神戸あたりでこんな言葉遣いをすると、拒否反応が返ってきたりする。

 独特な言葉遣いを駆使する、京都の人たち。特に、先祖代々京都に住んでいる人には顕著な特徴だ。争いごとを避けるためにイエス・ノーを明言せず、やんわりと受け答えする。「おおきに(ありがとう)」と言われても、それが肯定とは限らない。細かいニュアンスを一から十まで説明することは野暮ったいこと。「ここまで言ってもわかりませんか、察しの悪い人ですね」ということになる。

 こう考えると他府県の人が「京都の家」に住むことは、確かにつらいかもしれない。慣れるまでには年季が必要だ。

 ただ、これが京都の歴史なのだ。
 長い間、京都は日本の中心だった。今の東京のように「用があるなら京都に来い」という時代が、つい数百年前までずっと続いていたのだ。
 それが結果的に、「相手が自分に歩み寄ってくれる」という風になったのだと思う。

 だけど、京都も徐々に変わりつつある。先祖代々京都に住み続ける人は、時代の流れとともに減りつつある。JR京都駅は無粋な建物になってしまったし、先に紹介した山中さんが住んでおられるような町家も激減しているとのことだ。

 京都流の曖昧さは、日本国内でさえなかなか理解されなくなった。ましてや外国では「イエス・ノー」をはっきり表明しなければ、自分を認めてもらえない。
 きちんと言葉にのせて伝えなければ、自分の気持ちを他人に理解してもらうことなんてできない。それは当然のことだけれど、それでも私はこの「もってまわった曖昧さ」というものを、ほんの少しでも京都に残しておいてほしいなと思ったりする。
 だってそれが「京都」なのだから。「日本の文化」なのだから。

 交通網が発展して移動が簡単になった今、東京が京都のような独特の文化を持つことは、何百年経ったところでたぶん無理だろう。
 だからこそ、京都にあこがれを持ち、京都を訪れる観光客が絶えないのだと思う。そんな人たちへの一番の京都土産は、歴史と文化と誇りの香りだ。

 私の中には京都と大阪、双方の感覚が根付いている。


*「よそさんは京都のことを勘違いしたはる」は、著者・山中恵美子氏、ISBN4-05-402242-1で、2003年10月に学習研究社から初版発行されています。