「ひーエッセイ」 バックナンバー

 

 

   

<ひーエッセイ 第5巻 ★★真の大阪女性への道★★>
発行日:'01/07/30(Mon)


 最近、大阪人特有の気質を書いた本やエッセイをよく見かける。大阪生まれで大阪育ちの生粋の大阪人である私、この手の本が結構好きでよく読む。でも、典型的な大阪の女の子として書かれている特徴に、私はどうしてもあてはまらない。

 この春、だんなさんの転勤で東京へ行ってしまった同級生(彼女も生粋の大阪人)がいる。彼女は漫画家で、関西人OLの実体を描いた作品でレギュラーを持っている。だから、関西人(特に女性)のリサーチをよくしていて、彼女たちに共通した特徴を私にも教えてくれたりするのだが、私はそれにもあてはまらない。

 なぜだろう?と思っていた。だけど最近、やっとわかった。原因は、母だ。

 母は私に「自分(母)がいいと思うことを、強制的にやらせる」ことが、私がまっすぐな人間に育つと信じていた節があった。とにかく何でも「強制」だった。私はその「強制」に従って生きていた。それに従っていれば楽だという気持ちもあった。

 もちろん、しんどかった時期もあった。「何で逆らわないの?」と思ったお方。その考えは、ヒジョーに甘い。
 私の母の「私はあんたのことだけ考えて生きてんのよぉ〜」という強烈なウルトラビームは、そう簡単にかわすことはできない。兄弟がいれば、そのウルトラビームも分散されただろう。だが私は、幸か不幸か一人っ子。そのうえ、父は飲んだくれで遊び人。ウルトラビームには、本来父に向けられなければならなかった「夫婦愛レーザー光線」まで加わった。親戚でさえ、誰もそれを止めることはできなかった。

 私は小さい頃体が弱く、病院通いが欠かせなかった。自分のことより私が一番大事という母にとっては、由々しき事態であった。冬になると必ず風邪を引いてしまう幼い頃の私の冬の服装は、まるで雪国の子供のような完全武装である。長袖シャツにセーターにオーバーはおろか、タイツや厚手の靴下に毛糸のパンツまではかなければならなかった。ひどいときには「ハクキンカイロ」まで持たされる。
 我が家では「子供は風の子」などという言葉は死語であった。いやだと言えば、「冷えて風邪でも引いたら、どないすんねんな!!」と罵倒される。とにかく、幼い頃から母が選んだ服を着なければならなかった。

 そしていつしか、私の服を選ぶことが母の趣味になってしまった。時には服のサイズ確認のため、店まで呼び出されることもあった。御用達の店は、隣町のスーパー。スーパーの吊しなので特別高価ではなかったけれど、買ってくれた服の数は半端ではなかった。母が亡くなってからだいぶ処分したが、15年以上前の服が未だに残っていたりする。

 「これ、どう?」と聞かれた服が、私の好みに合うとは限らない。でも私は「どっちでもええよ」という答え方をしていた。なぜなら「これ、いやや」と答えると、母は「ほな、どれがええ?」と聞いてくるからだ。
 私は自分で物事を決めるという訓練を、親から受けていなかった。私が黙っていても、いてもいなくても、物事は運ばれた。気にくわなくても黙っていた方が楽だった。
 「どっちでもええよ」という答えは、どうしても答えなければいけないときに一番都合のいい言葉だったのだ。「あってもなくてもええけど、ほしかったら買えば?」という、卑怯な逃げだった。

 そんなわけで、服を選ぶこと自体が面倒くさかったのだ。服を選んでる暇があったら、家へ帰ってぐーたらしたいという思いの方が強かった。
 「どっちでもええって、どういうことや!」と母は怒った。私は「あんたがそういう風に私を仕込んだんやろ」と、心の中でうそぶいていた。母は結局その服を買っていた。好みじゃないので、私は着ない。それで母はまた怒る。でも、また違う服を選んでくる。それの繰り返しだった。

 そんなわけで私は、母が亡くなるまで服を自分で買ったことがなかった。服に興味がないので、アクセサリーや小物にも興味がわかない。ファッション雑誌なんか読んだこともなかった。何が流行しているのかなんて、全然知らなかった。「レノマ」「エルメス」などの超有名どころのブランドの名前を知ったのは、社会人になってからだった。
 「パーマは二十歳にならないとだめ!」「学生なのに化粧なんて!」という、今の若い子なら発狂してしまうような強制命令もあり、パーマ初体験は成人式直前、化粧初体験は社会人になった22歳のときだった。

 お断りしておくが、今書いていることは、数十年前の戦争中の話しではない。10〜15年くらい前の話だ。それに私の住んでいるところは、田舎ではない。れっきとした大阪の一都市だ。

 社会人になって大阪市内に勤めるようになったが、母の態度は基本的には変わらなかった。門限は10時半と決まっていた。1分でも遅れようものなら、「さっさと帰ってこんかいな!」という罵声がとぶ。挙げ句の果てには「こそこそ陰に隠れて、何をやってんねんな。家に帰ってくるのがそんなに嫌か!」と言われる。自分も働いていたのに、「会社のつきあい」という言い訳は通用しなかった。
「そんなもん、断って帰ってきたらええねん! 家の人にそう言われたって、会社の人に言われへんのか!」
 言えるわけ、ない。

 最近まで勤めていた会社では、社長はじめ社員みんなで大阪の北新地に繰り出し、日付が変わってからタクシーで帰宅することがたまにあった。母が生きていたら、泡をふいて倒れていたことだろう。そしてきっと、その会社をやめさせられていたことだろう。

 男性との付き合いも大変だった。何しろ「結婚するまでは、処女でなければ」と、まじめな顔で言う人だったのだから。
 社会人になってから付き合った人と別れてしまった後、私は母からその人と肉体関係があったのかを聞かれた。母にとっては、決死の覚悟での質問だったらしい。真実を知ったときの母の錯乱状態は、壮絶だった。

 それからだいぶたって、母に言われた言葉は今でもトラウマとなっている。一生、私の記憶の中から消えることはないだろう。
「(母の)勤め先にええ人がいるんやけどなあ・・・お前は紹介でけへんわ。傷物やから」
 好きな人と関係すれば傷物になるなんて・・・。別れてしまったけれど、後悔したことなんてなかったのに・・・。
 私を愛するが故の、母のあまりの考え方に、私はひとりで泣いた。

 母が亡くなったとき、私は29歳だった。とても悲しかった。でもその一方で、ほっとしたことも事実だ。

 自分を前へ前へと出していき、正直な自分をさらけだすのが、大阪の女性。でも私は長い間、そうすることができなかった。自分の意志をはっきりさせず、自分を押さえ、妙なところで気を遣っていた。くつろぐはずの家ででも、ストレスを抱えていた。ひとりでいるのが、一番楽だった。どんなに嫌なことでも「どっちでもええわ」という言葉でやり過ごしてきていた。それがいけないことだと、正面から言ってくれる人もいなかった。
 でもこんな私に、「こういう生き方はいけない」と何度も諭してくれた人がいた。
「黙っていてもわかってくれる人なんていない。言わなきゃ、伝えなきゃ、わからないし理解し合えない」と。
「もっと自分に自信を持って生きて」と。

 母が亡くなって、私はやっと自分の力で歩き出したような気がする。だけど、母の死という形でしか、私は親離れできなかったのかもしれない。あまりにも究極な親離れだった。
 そして最近になってやっと、言いたいことが言え、正直な自分をさらけだすことのできる「真の大阪女性への道」を歩き始めたような気がする。ここまでたどり着くまでに、私はものすごく遠回りをした。けれど遠回りをしていなければ、今の私はなかったのだ。

 他人がトラックを10周回る間に、1周しか回っていないような私の生き方。でもきっと、これが私の生き方なんだろう。