コアすぎる、話

 

   


Vol-01 「愛の嵐」

 その8 ひー流 「比較愛嵐論・昭和17年編」 その1

 昭和17年編、先週やっと終了。いやあ、「よくぞここまで、ひっぱった」というのが、私の正直な感想である。

 物語が進むにつれて、前作との違いがより顕著になり、文字通り「新・愛の嵐」の独特な世界が展開されている。登場人物の個性も際だち、ドラマらしいドラマになってきたと思う。

 でも、それでもである。私は今作より前作の世界の方がとても好きだ。この昭和17年編を見ていてもそう思った。理由は以下の通りである。

理由その1 そこまでやるか、大河原!

 大河原勇作という人間は、どのような手段を使ってもほしいものは手に入れる、という性格である。それは前作も今作も変わらない。ただ長塚大河原は石原大河原より、鷹揚さを持つ腹黒人間だった。

 今作では、ひかるに一目惚れした大河原は、最初から懇意にしていた軍の人間を使って結婚話をつぶし、「白部丸」の出航まで止めてしまう。これでもか、これでもかと三枝家を追いつめる。そこまでやるか!と感じるほど、しつこい。
 その行為は、子どもが駄々をこねておもちゃをほしがるのと、同じである。

 前作は違う。「猛と結婚できないならずっと1人でいる!」と両親に宣言して、ひかる自身が見合い話を断るのだ。縁談が壊れたことを知ってから、大河原は「ひかる略奪」を計画する。しつこくプレゼントを贈り続けたり、日本舞踊の発表会でひかるが目立つように画策したりする。
 そしてまるで真綿で首を絞めるように、じわじわと三枝家を追いつめていく。前作では実業家の大山さん(今作では大崎さん)と協力しあい、2隻の船を出航させるのだが、大河原はそれを邪魔したりはしない。「どうせ目的地まで、たどり着ける訳がない」と、余裕の表情である。その出航のために、大河原は伝右衛門の頬を札束ではる。
 恐るべし、長塚大河原だ。

 今作の石原大河原には「怖さ」はないけれど、長塚大河原は怖かった。お腹がひんやりするような怖さだった。でもそれが、よかったのだ。

理由その2 ためらいのないふたり

 ひかるちゃんが東京の学校から戻り、アトリエで子ども達に音楽を教えるというのが、今作の設定である。
 正直、この時代ではあり得ない設定である。

 地主の一人娘(それも超田舎)ともなると、地元のお嬢様学校を卒業して、花嫁修業をして、見合いして結婚するというのが王道である。「アトリエ」などという横文字の建築物の存在など、あり得なかった。
 前作ではきちんとその王道が貫かれていた。

 ひかると猛の関係も、微妙なものだった。ひかるは昔通り、猛に「ひかるちゃん」と呼んでもらいたい。けれど猛の方は、「ひかるちゃんは、お嬢様なんだ」といういましめが、骨の髄までしみこんでいる。回りの人間からそうするように強制されていたからだ。そうしなければ、生きては行けなかったからだ。

 でも今作、基本的に2人の間に「ためらい」が感じられなかった。「愛してる」とお互いに言い合い、激しく気持ちをぶつけ合う。キスシーンもあった。
 だけど私の中では、この2人(特に猛)にためらいがなければ、ドラマの魅力が半減してしまうといっても、過言ではない。

 今作では、猛がまむしにかまれたが、前作ではひかるがかまれた。ひかるをおぶって山道を走りながら、思わず昔のように「ひかるちゃん、死ぬな。死ぬな、ひかるちゃん」と猛は叫ぶ。
 助かったひかるは、猛に「その声で助けられた」と告げる。他には言葉がなかったけれど、とても切ないシーンだった。
 今作のように、「愛してる」と2人が連発するシーンなど、皆無だった。そんな言葉がなくても、解り合える2人だったのだ。

 ひかると猛の結婚が認められた時、2人は河原にたつ。ひかるが、「お嬢様じゃなく、ひかると呼びなさい」と言ったとき猛は、「そのうち、呼びます」と、照れながら答える。そして河原で水を掛け合って、喜びを爆発させる。
 前作で猛は、ひかるちゃんのことを「ひかるさん」とは呼ばなかった。それが猛の、ためらいだったのだ。

(書ききれないので、その2に続く)

('02/08/31)