めざせ!ハンドレッドセラーエッセイスト

 

 

   

チョキドリームズ向けコラム「教育を考える」

テーマ 「いじめ・生きるということ」

06.消えた恥じらい(2003年12月執筆)

同世代の友人達と「最近、恥じらいがない人が多すぎる」といった類の話をすることがある。もしかしたら、「恥じらい」などという言葉は死語に近いのかもしれない。

道だろうと電車内だろうと所構わず座り込んでおしゃべりしている、若者達。
人前だろうとへっちゃらで化粧直ししている、女性達。
人目もはばからず抱き合う、若いカップル達。

彼等を見るたびに、犯罪でない限りは何をしてもたいがいのことは許される、自由な時代になったのだなぁとつくづく思う。つい10数年前までは考えられない光景である。

ただ、この自由な世界を手に入れた引き替えに、何か大事なものを私たちは失ったような気がする。

疲れたからといってしゃがみ込もうとすると、「行儀が悪い。立ちなさい」と叱られたこと。人前で化粧することは女性の舞台裏を見せているのと同じことだから、とても恥ずかしいことなのだと聞かされたこと。
町中で抱き合うなど論外で、母が生きていたら「人様に見せるようなものではない」ときっと叫んでいたであろう。

私が子供の頃から聞かされたことは、今となっては古いのだろう。時代は常に流れているのだから、「恥じる」基準が変わっていくのも当然かもしれない。
ただ、自分の家から一歩外に出れば、自分だけの場所ではない。その基準は変えてはいけないと思う。

恥じらいがないと私が感じる人たちは、地球上全てが自分の部屋だと思っている節がある。「恥じらいがない」ということは、言い換えれば「けじめをつける」という気持ちがないのと同じではないかなぁ。
人間として本当に大切なものを、捨て去ろうとしているのだ。

恥じらいの消えた今の日本は、とんでもなく恥ずかしい国になりつつあるのかもしれない。